家族に大反対されながらキリスト教の道に進む

彼女の本名は山根菊子という。1893年に山口県の萩に生まれた。幼い頃から寺に通わされて説法に触れるが、キクにはそれがピンとこない。僧侶の「浅い哲理」に落胆していたが、まもなくキリスト教と出会う。急速に惹きつけられ、友人と連れ立って教会に通うようになる。だが当時のことであるから、世間からは共産党に入ったかのように見られ、父親はキクを殺すと言い始め、祖父はキクの聖書や讃美歌集を火にくべた。

そんなキクが頼ったのがエステラ・フィンチ(1869〜1924)である。フィンチはのちに帰化して星田光代と名乗る女性宣教師だ。キクはフィンチに手紙を出し続け、横須賀を拠点とするフィンチの伝道活動に加わるようになる。その後、紆余曲折はあったものの、キクは数年かけて横浜の神学校を卒業する。

それでも、キクには自分のキリスト教信仰が未完成であると感じられた。特にキリストの誕生、再生、復活についての疑問が解消されなかった。結婚して子育ても始まるが、キクの心は安定しない。そこで転換点になったのが政治運動だった。1922年、キクは発足したばかりの婦人参政同盟に参加する。女性の参政権獲得を目指すグループである。革新倶楽部にも加わり、犬養毅の知遇も得た。

とはいえ、政治活動も家庭生活も順調とはいえず、キクは自死を考えるほどに悩む。そんな折、青森で長期滞在する機会を得た。政治活動としての講演旅行を含め、2カ月を過ごし、日本史を学び直した。そして「日本天皇とは世界の天皇すなわちメシヤなり」と確信する。

以上が、キクの処女作『光りは東方より [史実]キリスト、釈迦、モーゼ、モセスは日本に来住し,日本で死んでゐる』(1937年/以下『光りは東方より』)に書かれた前半生である。同書には、その後の文献研究と実地調査の成果がまとめられているが、キリストだけでなく、ヨセフもモーゼも釈迦も来日していたことが論じられる。

弟イスキリが聖書の謎を解く鍵

新郷村のキリスト祭では、2つの墓が慰霊の対象となる。1つはキリストの墓とされる「十来塚」、もう1つがキリストの弟イスキリの墓とされる「十代墓」だ。キリスト青森渡来説では、この弟イスキリが重要な役割を果たす。十字架刑に処されたのは実はイスキリであり、キリストは弟を身代わりにして生き延び、日本にやってきたというのである。

そして渡来説をとれば、聖書の難問も解決できるとキクはいう。例えば十字架上の死の直前、キリストは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)と述べる。全知全能の神と一体であるとするなら、キリストは、なぜ自らの運命を知らなかったのか。なぜ普通の人間のように悲嘆したのかという疑問が湧く。だが、これがイスキリのセリフだったとすれば納得できるとキクはいう。つまり神ならざるイスキリの人間的な悲嘆だったと解釈するのだ。

十来塚の前に立つキク(右)(日本と世界社『光りは東方より』国立国会図書館デジタルコレクションより)