「開店休業」状態だった女性弁護士としてのキャリア

姉は丸の内の弁護士事務所に勤めていました。ただ、あまり仕事はしていなかったようです。結婚してわずか1年で戦争が始まりましたから。結局弁護士として働いていた期間は、1年もなかったんじゃないかな。姉は「開店休業だった」と話していました。

清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)

芳夫さんが召集されて、昭和20年に姉は疎開しました。姉と芳武君、一郎の妻の嘉根と娘の康代の四人です。疎開先は福島の(会津)坂下ばんげ町というところです。

そこは大変な暮らしでした。私は父に命じられて一度様子を見に行ったことがあるのです。農家の納屋を借りて、むしろを敷いたところに暮らしていました。水はけも悪く、ノミやシラミがいて、なめくじがはうような家でした。

食べ物も畑仕事の手伝いをしていましたが、ろくなものを食べていなかったようです。自分でも荒れ地を耕していたそうです。むごいことだと思いました。

戦争が終わって、登戸に移っていた武藤家へ帰ってきたのですが、当時は私と、すぐ上の兄貴は学生。その上の兄貴も出征していて戦争から戻ったばかりでした。まだ幼い芳武君を含めた、全員の生活の面倒を姉が見なければならなくなったのです。

姉は「もう私が働かなくちゃ」と言っていました。めそめそとしているのではなく、何か堂々としていたことを覚えています。私は「姉がいるから大丈夫」と思いました。

裁判官になって3人の弟やわが子を養った「とと姉ちゃん」

姉が裁判官になったのは、私たち家族を食べさせるためだったと思います。それまで明大の先生もしていましたが、姉から聞いたところによれば、当時の大学の講師は給料が安かったんだそうです。私たちの学費も必要でしたから、大学の仕事では一家を養えなかったのです。それに、あの当時は最高裁に入る、国の公務員になるというのは、とても大きなことでした。生活が安定するということでもあります。それで最高裁に入ったのだと思います。

結局、私の大学の学費も姉が出してくれました。もちろん奨学金ももらいましたがね。

NHK朝ドラに「とと姉ちゃん」ってあったでしょう。私にとっては父であり母であり姉でもある。まさに「とと姉ちゃん」でした。

私は東京大学で林業を学んで昭和27(1952)年に卒業し、林野庁に入りました。各地の営林署を回り、それから民間企業に移りました。転勤族だったので、裁判官になってからの姉とはすれ違いになりました。裁判官としての活躍は、他の方が詳しいでしょう。ただ、私が札幌にいた時に、姉が北海道まで旅行で来たことがありますよ。

姉は、兄の一郎を除くと、きょうだいの中で一番早く亡くなりました。まだ69歳でしたから。弟たちはみんな80まで生きました。それだけに早く亡くなったことが残念です。

※『三淵嘉子と家庭裁判所』編集部註:武藤泰夫氏は令和3(2021)年に93歳で他界しました。今回の記事は平成28(2016)年~令和元(2019)年にかけて行った取材内容を元に再構成し、ご遺族の了承を得て掲載するものです。

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