氏綱の子・氏康を潰そうと、河越城を包囲する晴氏らの軍

天文14年(1545)、氏康家臣の北条綱成つなしげは武蔵河越城(現在の埼玉県川越市)にいた。綱成は、氏康の家臣であり、親友であった。預けられた兵力は3千。少なくは、ない。ここに上杉軍が迫る。

かつてこの城は扇谷おうぎがやつ上杉家当主・朝定ともさだの居城であった。朝定が家督を継いだその年(1537)、氏綱がこれを奪った。朝定13歳の時であった。あれから8年──。恨み骨髄に達する朝定が、時は今ぞとばかりに、憲政に奪還の支援を要請した。反北条派は、関東に少なくなかった。

もともと力を失っていた両上杉家(山内・扇谷)当主の声掛けだったが、数えきれないほどの大軍が集まって(一説には8万人とも言われる)、河越城を取り囲んだ。9月26日のことである。事態を聞いた氏康は、いたく驚いたようだ。

タイミングは最悪だった。領土問題が激化した駿河の今川義元と対峙している最中だったからである。これぞ憲政の狙いであった──。義元に北条軍の主力を足止めさせて、その間に河越城を危険にさらして、もてあそんでやるつもりでいたのだ。

ところで通説は、「関東管領の上杉憲政が河越城を攻め囲んだ」とするが、憲政は公的には関東管領ではなかったはずである。また、実際はじめに戦地へ赴いたのは憲政であったが、背後でこれを支持していたのは、氏康の主君であるはずの古河公方・足利晴氏であった。天文14年(1545)10月27日、河越城を囲む軍勢のもとに、晴氏その人が着陣する。この戦いは、憲政と氏康ではなく、晴氏・憲政連合と氏康の戦いだったのである。

写真=時事通信フォト
川越城本丸御殿(埼玉県川越市)、2012年2月

用意周到な公方軍、北条氏康の留守をついて河越城を包囲

北条氏康は、甲斐の武田晴信に仲介を依頼した。晴信が動く。晴信は、氏康が今川義元および上杉憲政と和睦するよう交渉を進めることにした。義元も領土割譲を条件に「矢留やどめ」(戦いをやめること)を約束した。9月22日、ここに停戦が締結されたのである。

この停戦に双方が合意したとき、実はまだ憲政は河越城を攻囲していない。義元も氏康も、憲政が今ここで動いていることを知らなかった。ただ、憲政が氏康に敵意を募らせていること、不穏な動きを見せていることは知っていたであろう。河越城の攻囲は、北条軍から今川軍への領土の引き渡しが進められている間に起きたのである。

引き渡しを終えるまで、かなりの時間を要した。慎重に段取りを進め、双方が引き上げたのは12月9日のことだった。本来なら晴信が憲政に連絡して、兵を引くよう交渉するべきところである。だが、晴信が提案した「三方(北条・今川・上杉)」の和睦は、その後に憲政が出馬したことで、実を伴わなかった。