「理系」「文系」の区別が学びを歪ませた

日本の若者は「受験における成功」を過大に重要視する。

成功のための合理的な戦略は、効率化だ。受験科目を少なく抑えれば、相対的に短時間で高得点を期待できる。多数の科目を受験する場合は、その分勉強量が多くなってしまう。

「理系」「文系」の区別は、この効率化に親和性が高い。片方は社会科を、もう片方は理科を一切勉強しなくてもよい。「受験に出ない」保健体育などは言うまでもない。こうして、日本の若者の知性は非常に歪んだ、一面的なものに偏ってしまう。

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例えば、理科を学ぶにしても、科学史をちゃんと学んでいるのといないのとでは大きく理解が違う。過去から学問がどのように進化、発展してきたのかを知らずに「今、ここ」だけを理解しているのでは、学びが平坦なのだ。

その科学史の勉強も、その歴史が成立してきたバックグラウンドが分からなければ理解は不十分だ。要するに、理科をしっかり学ぼうと思えば、社会科もしっかり学ばねばならない。逆もまた同様だ。理科の理解なくして、しっかりとした社会科の学びはない。

省エネ化で痩せていく知性…

「学び」とは、人間が安全に生き延びていくための手段でもある。

だから、私は学校教育に「健康教育」「金銭の教育」「安全の教育」が必要だと考えている。多くの人が知識の欠如から健康を損ない、経済的に困窮し、危険な生活を送っているからだ。

しかし、こういう授業は学校で行われることはない。「保健体育」は受験に出ないから、教わる方もやる気が出ない。その中で行われる「性教育」も授業が1コマ、あるかないか。要するに「やったふり」をしているだけである。

大学受験や、そこから遡及して派生した高校受験、中学受験、小学受験、幼稚園お受験……に合格することが「目的化」することで、受験科目の省エネ化は必然だ。受験を目的ではなく、あくまでも手段として捉えることができなければ、日本の若者の知性はどんどん痩せていくと私は思う。

少子化とグローバル化で、受験の仕組みは激変が必至である。が、当の両親たちがその変化についていっていない。意識のアップデートができていないのだ。もう少し時間がたてば、「受験勉強」の相対的な重要性が目減りして、「手段としての受験」が定着するかもしれない(しないかもしれない)。受験の相対的軽視から、理系だの文系だのという、不要な歪みが解消される可能性がある。いや、それ以外に解消の可能性はない。