妹に対し「皇子を、産め!」

専横ぶりが目立ち、臆面もなく身内をひいきした道隆と、その結果、異例の昇進を遂げた伊周に対しては、そもそも公卿のあいだに不満が充満していた。そうした様子は、ドラマで秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』からも色濃く伝わる。詮子も道隆父子を苦々しく思っていた一人であった。

じつは一条天皇は、『枕草子』の記述などからも、伊周との関係が良好かつ濃厚だったようで、ことが順当に進めば、寵愛する中宮定子の兄でもある伊周に政権を担当させていたと思われる。

「石山寺縁起絵巻」第3巻第1段より藤原伊周[画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』(1983)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

だが、詮子は、道兼の後継に伊周を立てようとする一条天皇を、いったん兄の道隆から弟の道兼へ権力を継承させた以上、次はその弟の道長を立てるのが筋だと説得。『大鏡』によれば、詮子は清涼殿の上の御局に上がり込み、天皇の寝室に入って、渋る天皇を泣きながら説得したという。

その結果、伊周は最高権力者の座に就くことができなかった。

第18回では、その伊周が中宮で妹の定子のもとに乗り込んで怒りを爆発させ、「帝のご寵愛はいつわりであったのだな。年下の帝のお心なぞどのようにもできるという顔をしておきながら、なにもできていないではないか!」「こうなったらもう、中宮様のお役目は皇子を産むだけだ」「皇子を、産め!」と、無体な要求をする様子が描写された。

この場面は、親の七光りだけを笠に着て横暴に振る舞ってきた伊周の、人間の小ささをうまく描いていた。この男が小者であったことは、後述するように、道長政権が長期化するに至った理由の一つだといえよう。

ほとんどのライバルは疫病で死に絶えた

さて、官位は年下の伊周に追い越されていた道長だったが、いったん内覧になると、続いて6月19日には右大臣に任じられた。

このとき太政大臣と左大臣は空席で、右大臣が太政官の最上位だった。このため道長は、太政官の首班である「一上」(大臣のトップ)を兼務し、公卿たちの会議を主宰することになった(翌年には左大臣になった)。藤原一族の氏の長者にもなった。

8歳年下の伊周を退けての政権掌握だったので誤解されやすいが、このとき道長は30歳で、その若さで政権トップの座に就くのは異例のことだった。事実、当時の公卿のなかで道長は、伊周と、弟でドラマでは竜星涼が演じている隆家を除けば、いちばん若かったのである。いうまでもないが、これだけ若くして政権を握ったことは、長期政権になる条件の一つだった。

そもそも、道兼の死後、政権の中枢に座るべき候補が伊周と道長に絞られたのは、長徳元年(995)の3月から6月のあいだに、道隆と道兼以外にも、大納言藤原朝光、左大将藤原済時、左大臣源重信、中納言源保光、権大納言藤原道頼らが続々と死去し、伊周と道長より上位の公卿がいなくなったという事情もあった。

道長は若かったため、その後の時間はたっぷりとあった。おまけに、外されて遺恨をもつ伊周と隆家の兄弟を除けば、道長の立場を脅かす人間がいなくなっていたのだ。