「反・学問のすゝめ」
これは、『学問のすゝめ』初編(1872年)で、読み書き算盤から地理学、究理学(物理学)、歴史、経済学にいたる「実学」の意味を説いた姿とはかけ離れている。もはや「反・学問のすゝめ」といってよい。
福澤は、教育と社会不安との関係をかなり長期的な視野で捉えていたようである。三男の三八によれば、ちょうどこの時期、福澤は共産主義への懸念を周囲に語り出したという。まだ共産主義というものが存在していることすら一般に知られていない時代である。
さらに日清戦争後には、「学問知識の進むに従いこの状態に満足せず不平が起ってくる。その不平は共産主義の形で現れる」と語り、政府と共産主義者の対立が長く続くことを予言したという。
注目すべきは、この共産主義の震源地になるのは帝国大学だと予測していたことである。
この晩年の談話が真実だとすれば、のちのマルクス主義の時代に帝大関係者が果たす役割までも予感していたことになる。
少なくとも、知識が人々に不満を自覚させ、増幅させるメカニズムの中に共産主義思想が入りこんできた場合を想定していたことは間違いないだろう。
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このように、『「反・東大」の思想史』には、政府の優遇を受ける官学と対抗していく中で、福澤諭吉の思想が激しく揺れ動く様子が描かれている。
しかし、「時に極端に振れながらも、福澤は一貫して『官尊民卑』の打破を訴え、『民』のレベルを引き上げることに尽力しました。日本の近代化において、福澤と慶應義塾が果たした役割は非常に大きいものがあります」と尾原教授は総括している。