「公共経済」の観点から
なぜ貧乏人に高度な教育を安価で提供してはいけないのか。
第一の理由は、官公立学校が税金で開設され、運営されているからである。篤志家による資金提供などで運営される私学と違い、官公立学校は金持ちと貧乏人とを問わず強制徴収した税金によって設立され、運営されている。つまり、その費用には食い詰め者から徴収した税金も含まれている。
ところが、税金で作った「盛大高尚」な官公立学校の恩恵を受けるのは、もっぱら一握りの「貧書生」だけである。優秀な若者を見捨てることは忍びないが、「公共経済」の観点から見て、限りある税収で無数の「天下の貧才子」を養うことはできない、と福澤は断言した。
貧乏人に高度な教育を与えてはならない第二の理由は、「社会の安寧」を乱すからである。
学問を修め精神を発達させると、どうしても社会の不完全さが目につき、不満を抱くようになる。最大の不満は、もちろん我が身の不遇である。そういう人間はなんとかのし上がろうとして「結社集会」「新聞演説」といった手段に走る、と福澤はいう。
「社会の安寧」を乱す
この時期の福澤は、貧者に対して一定レベル以上の教育を与えること自体が「天下の禍源」だと主張するようになった。
教育を受けた者は、知識を得て精神を発達させるので、どうしても「気位」が高くなる。その状態にいたった人間は、「知識相応の地位」を渇望するようになるので、「貧賤に居るの不幸」に耐えることができない。常に不平不満を感じるようになる。
現に小学校程度の教育ですら、父母と一緒に農耕に従事することや、郷党の仲間と一緒になることを嫌がる者を発生させている。中学教育や大学教育を受けた者ならなおさらである。
「智力」が成長しても、それを実地に活かせる地位や財産がなければ「憂患」となるだけであり、就学する貧者の数が増えるほど「社会の安寧」を脅かす原因が増える。
官公立学校は官吏の道に近いというが、多くの者にポストを与えられるわけでもない。安寧を維持するためには官公立学校を全廃するか、公的資金の投入をやめて学費を値上げするかして、貧困書生を「淘汰」し「富んで志ある者」の子弟にのみ門戸を開くのがよい(「教育の経済」、「教育組織の改革を祈る」)。