共に罪に問われ裁判沙汰になった高橋治之・治兄弟の歪んだ慶應愛

この福澤克雄氏も幼稚舎出身。小5でラグビーを始め、大学では当時社会人王者のトヨタ自動車を破り日本一に輝いた。大学を卒業するまでラグビー漬けの日々を送り、慶應義塾高校(通称「塾高」)1年の時、留年している。ラグビー部の練習に明け暮れ、出席日数が足りなくなったのだ。塾高の元教員は「諭吉先生の血筋であろうと、慶應は容赦なく落第させると学内でも大きな話題になった」と振り返る。

慶応義塾大学三田キャンパス東館正面に刻まれたロゴと文字(写真=塾生/GFDL/Wikimedia Commons

まさに慶應を体現する一人だが、福澤氏以外にも忘れてはならない象徴的な兄弟がいる。

東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件で現在、被告の身となっている高橋治之氏(大会組織委員会元理事)と、その弟・髙橋治則氏である。

2人とも幼稚舎から慶應に入った。父はテレビ朝日の前身の日本教育テレビの立ち上げにかかわり、全国朝日放送で取締役を務めた人物。裕福な家庭だった。

治之氏は塾高時代に、当時は16歳から取得できた軽乗用車運転免許をとり、父が所有する外車を乗り回していた。1960年代初頭の話である。典型的な慶應ボーイだった。

5つの企業から大会のスポンサー契約やライセンス商品の審査などをめぐり、総額2億円近い賄賂を受け取った罪に問われ、本人は否定しているが、現在も裁判が続いている。

より慶應を愛していたのは弟のほうだろう。治則氏は塾高1年の時、仲間と内輪のパーティーを企画。パーティー券を売りさばいたことが学校側に知られ、首謀者と見なされた治則氏は退学処分になってしまう。

世田谷学園に転校したが、遊ぶ相手は幼稚舎の同級生だった。そして、大学は一般入試で慶應の法学部を受験。合格し、再び慶應に戻ってくるのである。

治則氏は慶應を卒業すると、日本航空に入社。同社に籍を置いたまま、不動産開発投資会社イ・アイ・イ・インターナショナルを設立。世界各国でリゾート開発を手がけ、総資産はすぐに1兆円を突破したが、まもなくバブルが崩壊し、メインバンクから支援を打ち切られ、経営破綻に追い込まれる。

1995年、治則氏は背任容疑で逮捕され、東京地裁で懲役4年6カ月、東京高裁で同3年6カ月の実刑判決が出た。最高裁で争っている最中の2005年7月18日、治則氏はくも膜下出血に襲われ還らぬ人となった。59歳だった。

告別式は幼稚舎から歩いて15分ほどのところにある永平寺別院長谷寺で行われた。幼稚舎時代からの仲間も駆けつけ、参列者は2000人にも及んだ。追い出されても母校に舞い戻った男を慕うように、塾員たちはここぞとばかり集結したのだった。