台湾銀行が帝人株を売却した後に株価が上がり、疑惑の報道が

当時、この売却契約は一部で報道されていたが、1934(昭和9)年1月から始まる『時事新報』の連載記事「番町会を暴く」(全56回)により政治問題化していく。この連載は時事新報社相談役・武藤山治さんじの指示により、同紙記者・和田日出吉ひできちが大森山人の筆名で執筆したものである(武藤治太『武藤山治と帝人事件』)。

番町会とは日本経済連盟会会長・郷誠之助を中心とする財界人グループの通称であり、1923(大正12)年に麹町こうじまち番町にある郷の私邸で開かれた懇談会が始まりである。1933年末から議会政治擁護、政民連携の必要性を掲げており、政民連携運動の仲介役を務めていた実業界出身の中島商相もそのメンバーであった。『時事新報』は、その番町会が有力者に仲介を依頼することで帝人株式を廉価で不正入手し、かつ、政民連携運動を名目にして利権劇を繰り広げていると攻撃したのである。

検察当局は1934年2月から内偵を始め、4月から9月にかけて関係者を検挙していく。のちに島田茂(台湾銀行頭取)、長崎英造(旭石油社長。番町会)、高木復亨(帝人社長、元台湾銀行理事)、柳田直吉(台湾銀行理事)、永野護(帝人取締役。山叶商店取締役。番町会)、小林あたる(富国徴兵保険支配人。番町会)が背任および瀆職とくしょく(汚職)、河合良成(日華生命専務、帝人監査役。番町会)が背任、越藤恒吉こしふじつねきち(台湾銀行経理第一課長)、岡崎旭(帝人取締役。元台湾銀行秘書役)が背任および贈賄、黒田英雄(大蔵次官)、大野龍太(大蔵省銀行局特別銀行課長)、相田岩夫(大蔵事務官・台湾銀行監理官)、志戸本次朗(大蔵省銀行局検査官補)、大久保偵次(大蔵省銀行局長)、中島久万吉(元商工大臣)が瀆職、三土忠造(元鉄道大臣)が偽証(帝人株式300株収受の否定)の容疑で起訴される。

台湾銀行頭取や帝人社長らが汚職で次々に検挙された

なお、この帝人事件に関連して失脚することになる閣僚のうち、中島と鳩山に対しては検察の捜査開始前から議会内で攻撃が始まっていた。

鳩山一郎文部大臣。犬養内閣編纂所編『犬養内閣』より(1932年撮影)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

1934年2月3日、第65回貴族院本会議で同和会の関直彦は帝人株式が政府高官の仲介で不当売却されたことを追及するが、この演説内容は1月中旬、武藤山治から提供された資料に基づくものであった(前島省三『新版・昭和軍閥の時代』)。

同月7日、公正会の菊池武夫(元陸軍中将)は中島の雑誌論文「足利尊氏」(『現代』1934年2月号)の内容が逆賊賛美にあたると批判する。これは中島が中島華水の筆名で発表した「鶏肋けいろく集(其三)」(『倦鳥』1925年3月号)が無断で転載されたものであった。菊池は三土鉄相に対しても田中内閣蔵相在任中の神戸製鋼株処分や、鉄道工事をめぐって不正疑惑があることを指摘する。さらに研究会の三室戸敬光みむろどゆきみつ(元海軍大佐)も緊急質問として登壇し、尊氏問題に関する中島の所見を追及する。