1936年から女子に開かれた司法試験で初の合格者を目指した

弁護士法が改正されてから3年後の昭和11年(1936)には、女性でも高等試験の司法科試験を受験できるようになった。これに合格すれば弁護士資格が取れる。同年の受験者は3610名中17名が女性だった。そのうち13名は明治大学法学部出身者で占められていたのだが、一次試験の論文試験で誰も合格できずに終わってしまう。翌年の昭和12年(1937)には、法学部1年に在学中の田中正子が論文試験に合格した。が、二次の口述試験で不合格になっている。

嘉子は昭和13年(1938)3月に明治大学法学部を卒業し、この年の11月におこなわれる司法科試験に挑むことにした。法律を学ぶうちに、彼女も司法科試験合格をめざすようになっていた。専門部と大学で6年間学んできた。法律を職業にしようという意識はまだ希薄だったが、その成果を証明したいという思い。また、女子が高等試験を受験できるようになって2年、いまだ合格者がでていないというのが悔しい。自分たちの代でなんとかせねばという使命感に燃えていた。

大学側でも嘉子たちに悲願達成の望みを託している。法科の教授や講師たちの言動からも、その必死さが感じてとれた。後につづく後輩たちのために、女性が法律を学ぶ場所を残しておかねばならない。仲間意識や母校愛の強い彼女だけに、受験勉強にいっそう熱が入った。

画像=東京朝日新聞、1938年11月2日付

合格率10パーセント、東京帝国大学の出身者でも難しい狭き門

高等文官試験とは、戦前の日本で実施されていた上級官僚になるための資格試験のことだ。合格率10パーセントに満たない狭き門で、合格者の多数が東京帝国大学出身者で占められていた。日本中の秀才が集まる最難関の東京帝国大学出身者でも、この試験に合格するのは至難の業。

試験には一般の行政官採用を目的としたものと、外交官の採用を目的とした外交官及領事官試験、そして、裁判官や検事など司法官を採用するための司法科試験があった。かつては公務員である判事や検事の採用だけを目的にした判事検事登用試験があり、弁護士資格の取得はそれとは別に弁護士試験が実施されていたのだが、大正12年(1923)以降はそれが「高等試験司法科試験」として統一される。民間の法律家である弁護士が、その資格取得のために公務員になるための資格試験である高等試験を受験するというのは、現代人の我々には不思議な感じがする。