「努力のやり方」もクリアになっていく
壁に対する好奇心。登りたいという気持ち。日々、多様なシチュエーションを想像しながらトレーニングをしてきたこと――。
そんな思いと日々の努力に応じるように、サラテは様々な表情を彼に見せるようになっていたのだった。
「サラテに登る日が来るまでの2年間、毎日、そのことを考え続けてトレーニングをしていたからでしょうね。自分の壁に対する考えが深まれば深まるほど、そのフィルターを通してあらゆる物事を見るようになっていく。
すると、最初はただの壁であった場所に、緩やかな凹凸やプロテクションが見えてきたり、『あそこにピッチの切れ目の終了点があるんじゃないか』と想像できたりするようになってきたんです。そんなふうに物事が見えてくるようになると、さらに努力をしたくなってくるし、努力のやり方もクリアになっていくんです」
……平山がサラテへの挑戦というアイデアを思い付いたのは、1995年の秋のことだった。この年、25歳になった平山は、9年ぶりにアメリカを訪れた。
「そのときにね――」
と、彼は言う。
初めてヨセミテを訪れたのは17歳の時
「以前に来たときには見えなかったものが、岩壁に見えているように感じたんです」
15歳の時からロッククライミングを始めた彼は9年前、世界的なクライマーである山野井泰史に誘われ、初めてヨセミテを訪れた。
当時、多くのクライマーが練習場所にしていた東京・常盤橋公園の城壁跡の石垣の近くに、彼らのたまり場となっていた「アトム」という喫茶店があった。まだ幼さの残る平山は年上のクライマーたちに可愛がられ、彼らの話す聖地ヨセミテでのロッククライミングに憧れを抱くようになった。
平山はヨセミテへの渡航費用を貯めることを決意し、高校の授業を終えると常盤橋公園で2時間ほどトレーニングをした後、京王デパートのビル清掃のアルバイトをして金を稼いだ。
そんななか、平山をヨセミテに誘ったのが、当時20代前半だった山野井だった。山野井は前年にヨセミテでのクライミングで足を負傷しており、その再チャレンジをするので一緒に来ないか、と平山に言った。