ヨセミテで「自分の進むべき道」を見つける
そうして初めてヨセミテを訪れたときの感動は、いまも平山の胸に焼き付いている。ロサンジェルスからバスに乗りマーセド経由で、クライマーたちの拠点となっている「キャンプ4」に向かうと、これまで写真でしか見たことのなかった有名な山や壁が次々と目の前に現れた。クライマーたちとの交流も刺激的だったし、何より山野井と州境を越え岩場を変えてクライミングを続けた経験は、平山にとって大きな財産となった。
このヨセミテでの体験は、平山のキャリアの転機となった。そこで彼は「ヨーロッパのスタイル」のクライミングに出会い、自分の進むべき道はこれだと感じたからだ。
「当時の日本に入ってくるロッククライミングの情報は、力でねじ伏せる冒険的なアメリカのスタイルのものばかりだったんです。一方でヨーロッパのスタイルでは、難易度の高い岩場を、技術を使って乗り越えていくものでした。ヨセミテの岩場をヨーロッパの無名のクライマーたちが次々に制覇していくのを見て、これこそが世界に通じるスタイルなんだと思いました」
その後、平山はフランスの著名な岩場である「ビュークス」などの遠征を経て、翌年の1989年に通っていた高専を中退してヨーロッパに渡った。そして、フランスのプロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスを拠点に決め、日本で結婚するまでの7年間をそこで過ごすことになった。
「なぜ登るのか」という答えの出ない問い
だが、そのなかで胸に抱えるようになったのが、「なぜ自分は登るのか」という答えの出ない問いだった、と平山は振り返る。
「正直に言えば、クライミングに対する情熱を失った時期もあったんです」
――それはなぜだったのでしょうか。
「1988年にヨーロッパでは当時の最難関と呼ばれていた8b+の壁も登ったし、89年には世界的にステータスのある大会でも優勝しました。
スポンサーもついていたし、ある程度の結果はついてきていたんですよね。
でも、15歳の時のように単に登っていることが楽しい、という時期はもう過ぎてしまっていた。20歳を過ぎて、『自分にとってクライミングとは何だろう』と年を追うごとに考えるようになって……。
それは僕にとって『なぜ自分は生きているのか』という問いと同じものでした。あの頃は『その答えが出るまで、とりあえずやっているか』みたいな感覚で、何か目指すものを失ったような気持ちの中にいました。もちろんそんな気持ちの状態では、なかなかいい成果は上げられないものです。なんというか、根本的なものがクリアにならなくて。そういう生活をずっと続けていて」