変わるから生き残っている落語

談志は、あの言動からは信じられませんが、フェミニストでした。

とあるバラエティ番組に出演が決まった際その打ち合わせの時に、構成作家からの「ここで○○さん(女性タレント)に年齢を聞いてもらえませんか」という提案に「いや、女性に対して俺はそんなことは言えない」と答えていたものです。

もしかしたら、「武士の気概に対する美学というよりも、父のメンツのために吉原で働かないといけなかった娘の絹の不憫さ」を感じていたのかもしれません。実際私生活でも家庭をとても大切にしてきた人でもありましたし、何と言ってもその家族には弟子に対して「さん付け」を徹底させた人でした。

©2024「碁盤斬り」製作委員会
映画「碁盤斬り」より

娘を売るほどの値打ちが「武士の気概」にあるのか。当時の名人たちが平然とやっていた「柳田格之進」に違和感を覚え、口演しないことでひそやかに反旗を翻していたのかもというのは考えすぎでしょうか。そういうことの積み重ねで「立川流」設立に至ったのではと、妄想するのみです。

とまれ、落語は同じ噺でも時代、時代によって解釈が加えられ変えられてきたからこそ進化を遂げ、令和の今でも生き残っているものです。

私は落語が初めてのスタッフが多いとも聞いたので初心者向けガイドも含めて「柳田格之進」を語ることにしました。

マクラで「なぜ店賃がたまっていても大家さんは大丈夫だったのか」(答え……長屋の共同便所の糞便を農家に有機肥料として買ってもらっていた)などの当時の長屋の暮らしにまつわる豆知識、そして「落語はその時代の価値観に応じて中身もオチも変えられてゆくもの、そんなフレキシブルさが落語の命脈を保つもの」と訴え、「この映画に参加させていただくことで、私の『柳田格之進』が変わることになるかもしれない」と示唆して、語りました。

スタッフ各位には私が何者かということもわかっていただけた手応えを感じながら語り終え、3月の太秦での撮影が開始となりました。

怒号が飛び交う30年前の撮影現場

リスペクト・ミーティングを経ても、正直、私は「覚悟」をして臨みました。

30年近く前のVシネの現場では、ずっと怒号や罵声が飛び交っていたものです。

演技が初体験で「ずぶの素人」であった私もカメラマンの方から、容赦なく怒鳴られました。

「おい、わけえの! お前がそっちに行っちまうと、カメラから出ちまうだろ!」

あの頃談志にずっと怒鳴られていたものですから、ある程度耐性はあったつもりでしたが結構ひどい怒られ方をしたものです。

「何やってんだよ、ちゃんと動いてくれよ‼️」

「すみません!」と呆然と謝罪する私に、私より若い助監督がすぐさま飛んできました。

「すみません、○○さん(カメラマンの名前)、ほとんど寝てなくていっぱいいっぱいなんですよ」とフォローをしてくれて、その場は丸く収まりました。

Vシネマは低予算でやりくりをせねばならず、その軋轢がカメラマンさんを始め、現場のスタッフの皆さんにのしかかっていたのでしょう。

その晩のことでした。部外者的な私に対してひどい声を上げてしまった申し訳なさからでしょうか、そのカメラマンさんはその日の打ち上げでは反動のように優しくアドバイスしてきてくれたものです。ビールを注ぎながら「俺も怒られながら育てられた。談志さんもそうだろう。なにくそって思ってここまで来たよ」。

自分こそ「覚悟が足りなかったのかもです」みたいな言い方で対応したものでした。

「落語家をやるのも、役者をやるのも、映画を撮るのも、こういうものを乗り越えてゆかねばならないんだよな」と、注いでもらったビールは余計に苦く感じたものでした。