維新の過ちを忘れてはいけない
結果として、「廃城」となった城の建造物は次々と払い下げられ、それを受けて取り壊された。前述の萩城は「廃城」と決まって間もなく払い下げが命じられ、明治7年(1874)に五重の天守のほか櫓14棟、城門4棟、武器庫3棟がすべて解体され、計1348円3銭で払い下げられた。明治初年の1000円は、いまの1000万円前後だと思って、さほど外れてはいない。
高石垣が3段、4段と見事に重ねられた津山城(岡山県津山市)は、五重の天守のほか60もの櫓が建ち並ぶ、日本を代表する平山城だった。しかし、すべての建造物が入札にかけられ、保存運動が起こる間もなく、明治7年(1874)5月に1121円で払い下げられ、翌年3月までにすべてが解体されてしまった。
徳川家康の命令で、諸大名による御手伝普請で築かれたはじめての城、膳所城(滋賀県大津市)も、家康の出生地として知られる岡崎城(愛知県岡崎市)も、ほぼ同様の経緯で天守以下の建造物がすべて取り壊された。
片や「存城」も、あくまでも軍用財産にすぎないから、たとえば、名古屋城の二の丸と三の丸の建造物が、練兵場や兵舎などを建設するためにすべて取り壊されたように、次々と手が加えられていった。
翻って近年、できるだけ元の姿に戻すという努力が行われている城は増えている。しかし、いかんせん明治初年の破壊の規模が大きすぎた。日本人がアイデンティティーとしての文化に無頓着だったツケは、いま、日本中の景観となって表れている。私はそれをアイデンティティーに敏感な欧米人に見られることが恥ずかしい。
むろん、かろうじて残された歴史的環境を維持し、整備してほしいと思うが、そのためにも、ここに記した維新の過ちを忘れてはなるまい。