プロデューサーが抱いていた不満

これら「THE MANZAI」や『オレたちひょうきん族』のプロデューサーだったのが、フジテレビ(当時)の横澤彪である。その横澤が次に企てたのが、お昼のバラエティ番組だった。

元々フジテレビには、昼の生放送による帯バラエティ番組の伝統があった。たとえば1960年代には、前田武彦やコント55号が出演した「お昼のゴールデンショー」(1968年放送開始)が人気だった。

この番組は、東京・有楽町にあった東京ヴィデオ・ホールからの生放送。前田武彦は放送作家出身で、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系、1968年放送開始)の司会などで活躍した人気タレント。萩本欽一と坂上二郎がコンビを組むコント55号は当時売り出し中で、この番組でもコントを披露し、さらに人気を加速させていった。

そして1980年代に入ると、B&B、ツービートら漫才ブームの人気者たちが出演する「笑ってる場合ですよ!」(1980年放送開始)が始まった。基本になるフォーマットは、後の「いいとも!」と同じ。開業したばかりの新宿スタジオアルタから、月曜から金曜までの生放送。

総合司会はB&Bで、各曜日のレギュラーにツービートや島田紳助・松本竜介、さらに落語家の春風亭小朝、明石家さんまなどが起用された。いわば、旬の人気若手芸人総出演という趣があり、その点でも「いいとも!」の原点となった番組である。

ただ、この番組でもプロデューサーを務めた横澤彪は、あるときから不満を抱くようになっていた。その理由は、「知性の欠如」だった。

若手人気芸人は初歩的な笑いしか生まない

「笑ってる場合ですよ!」もスタジオアルタからの生放送ということで、観客が入っていた。しかも、出演者の多くがいまを時めく漫才ブームの若手人気芸人ということもあって、観客も若いファンが多かった。

東京・新宿東口にあるスタジオ・アルタの写真(写真=Kentin/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

その結果、ファン心理も手伝って、スタッフや出演者が意図したところで笑うのではなく、ただ滑って転ぶだけでウケるような初歩的な笑いしか生まれなくなっていたのである。

その状況は、「笑いというのはパロディーにしろナンセンスにしろ基本は凄く知的なもの」と考える横澤にとって、受け入れがたいものだった。

そこで横澤は、新番組を立ち上げてもう一度知性を感じられるバラエティ番組をつくろうと決心することになる。そしてそうした知的笑いを担ってくれる肝心の人材は、「タモリしかいないんじゃないか」と横澤は考えるようになっていた*2。

だが、タモリに対し、夜な夜なスナックで仲間内だけの怪しい宴を繰り広げる「密室芸人」のイメージしか持たない周囲からは、「夜のイメージが強い」「客前で出来ない」「アドリブがきかない」「主婦には受けない」など否定的な意見が多かった。

だがそれでも、知的笑いにこだわる横澤は、それらの反対を押し切った*3。