清算できないのが血縁のつらさであり救いでもある

若いころ、ひとりで生きていけると思い込んでしまうのは、幼児が万能感をもつのと同じようなところがある。それも人間の自然だからプラスもあるでしょう。しかし、大人を含めて個の価値が不自然に高くなれば、歪みも増えると思う。自分のためだけに生きるというのは案外、満足感が少ないものだ。

たとえば電車の中でお年寄りに席を譲ったときというのは、争うようにして座ったときより明らかに幸福感がないだろうか。ない、かな。フフ。

あるいは、自分のためだとどこか遠慮がちになってしまうことでも、それが他人のためとなると俄然力が発揮しやすくなる。そのマイナスもあるけれど、エゴのために生きていない快感を「正義」とか「善意」という綺麗事にとじこめないで、「喜び」として認知するのも悪くないと思う。

友だちでも恋人でも、基本はプラスのカードの出し合いだ。趣味が一緒だとか感じがいいとか何らかのメリットを感じているからつき合うのであり、メリットがなくなったら、つまりマイナスのカードしかなくなったら関係は薄くなるだろうし、場合によっては自分の意志で断ち切ることも可能だ。

しかし、家族はそうはいかない。プラスだろうがマイナスだろうが、そこに出されたカードはすべて自分の宿命として引き受けていかなくてはならない。生まれてきた子どもがかわいくないからといって、隣の子と換えるなどということは許されない。

好き嫌いに関係なく、生まれる前からの多くの人生の血縁の結果、集まった人間同士が、負の部分も見せ合いながら仲良くやっていこうというのだから、何かしらの問題が発生しないほうがおかしい。たとえ具体化していなくても、家族のそれぞれが何らかの不満や失望を抱えているのは、むしろ自然だ。

しかし、きっぱり清算できないのが血縁のつらさであり、一方で救いでもあると思う。もしすべて自由で、どんな家族を持つかは本人の選択だったら、その自由の重さに、自己責任のとめどなさに、へとへとになってしまうだろう。家族から逃げても、逃げたという事実は負い目となって残る。

どこに行こうと家族の宿命性から完全に自由になることはできない。そういう関係があることは時に辛いし、悲しいけれど、時に心の安定にどれほど力になっているか知れないと思う。

(撮影=若杉憲司 構成=山口雅之)