個が大切だという価値観が浸透したことが大きいのではないか
その4年後の「岸辺のアルバム」では、戦後の社会が日本の一家族にどのような変化をもたらしたかに焦点をあてた。一戸建ては買えるようになったけれど、会社人間の父親はそこにおらず、家事労働から解放された母親は家庭以外の居場所を探しはじめる。
幸せそうに見える家族も、一人ひとりは退屈な日常の中で、溜まっていく澱のようなものに息苦しさを感じていて、それらを一気に払拭したいという潜在的な災害願望さえもっている。それが一気に現実となったらどうなるか、という発想だった。
一方で、このドラマでは、母親や姉の異変に気づいた息子に、「ウチは変だ。みんなどうかしている」といわせている。そのころはまだ近代の理想の家族像を追い求めようというところが、社会にあったと思う。
現在はどうか。もう誰もそんなことをいいはしない。どのような家族像もありうる。父が外で働き、母が家を守るという形はかなりこわれてしまった。しかし、それで幸福の量が増えたという気も正直なところあまりしない。ゆり戻しだって、ないとはいえないかもしれない。
「三人家族」では、マイナスを抱えている子どものほうが絶対に生きる力が強いはずだと考え、あえて片方の親がいない家族同士3人ずつのドラマにした。当時のドラマではあまりない試みだったが、いまは片親だからマイナスだというほど単純な社会ではなくなっているのは成熟だと思う。
しかし、一方で非常に温厚な人が急に包丁で人を刺したり、実の母親がわが子の命を奪ったりということが頻繁に起こり、リアルなドラマで「人間って、こんなことをするだろうか」とか、「これはちょっと現実感がない」というようなセリフを書くと嘘っぽくなってしまう妙な世の中になってきた。
家族が変わってきたいちばんの原因は、この国が経済的に豊かになったことだが、もうひとつ、家族よりも個が大切だという価値観が浸透したことが大きいのではないかと思う。
家族の中では、誰かの犠牲になったり、陰で支える役目を担うことはどうしてもある。それぞれが個の自由を制御しなければならない。しかし、個の発展こそが善であるとなれば、その妨げにしかならない家族なんて必要ないという考え方にもなっていく。
そして、それが可能なくらいには豊かになり、家族一人ひとりの結びつきはますます弱くなっていく。ゆくゆくは解体していくのだろうか。まあ、そんなことはないと思う。なぜなら、個の自由がすべてに優先するという価値観が非現実的だからだ。
自分の人生を誰にも邪魔されたくないといっても、では無人島にひとりで暮らせばどうかといわれれば、大半の人はそれを苦痛に感じるだろう。何だかんだいっても、周囲との関係の中でしか生きられないのが人間で、利害効率で裁かれる社会では、とりわけそこから逃れられるつながりを必要としてしまうと思う。