編集者と読者に「一体感」があった最後の時代

会社のカネで外国へ行き、遊んでいてカネがもらえる編集者という職業に憧れた。私が雑誌編集者になってからは、編集長や先輩編集者から、「読者の目線で、自分が面白いと思うネタを見つけてこい」と口を酸っぱくしていわれた。

中には「ジャーナリストとはこうあらねばならぬ」などと御高説を垂れる先輩もいるにはいたが、編集部の大勢は面白いか否かであった。

編集者が面白いと思うものは、読者も面白いと感じてくれて、部数にも結びついた。編集者と読者との間に「一体感」があった最後の幸せな時代だったと思う。

写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
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名誉毀損きそんで訴えられたことは何度もあった。当時、自民党の“ドン”の一人といわれた衆院議員から、私が担当した記事に対して2億円訴訟を起こされたこともあった。1970年代の2億円だから、今だと5億円近いのかもしれない。他誌が「週刊現代が2億円で訴えられた」と特集を組んだものだった。

当時の私には、金額が大きすぎてピンとこなかった。政治家は地元の有権者向けに訴訟を起こしてくることが多く、この時も、すぐに弁護士同士が話し合い「和解」した。

今のようにSNSがあるわけではない。報道した内容に抗議の電話が殺到するということも、一部の宗教団体とのトラブルを除けば、なかった。

SNSの登場で編集現場は様変わりした

だが、カミソリや銃弾が入った封筒が送られてきたりすることはよくあった。編集長時代、大阪方面の暴力団が私をつけ狙っていると、自宅のある警察署から連絡があり、夜の12時から朝の6時まで、家の前に1カ月間、覆面パトカーが止まっていたことがあった。

護身用に特殊警棒を鞄の下に隠して通勤していたことも。

家の前をぞろぞろと多くの人が通って、「ここが元木の家だ」と小声で言い合っていたことも一度や二度ではない。

某過激派ともめた時、相手から「お前の娘は何々幼稚園に通っているな。せいぜい気を付けたほうがいい」と凄まれたこともあった。

家にかかってくる脅迫電話には妻が対応していたが、生来楽天的な女性で、それに怯えて落ち込むということはなかったので助かった。

とまあ、週刊誌という媒体の性格上、記事が出て喜んでくれる人は少なく、恨みを買うことのほうが多かったから、これぐらいのことは致し方ないと思っていた。

だが、世は移り、週刊誌にも社会的責任が求められるようになった。単に面白ければいいでは世間が許さない。編集現場は大変だ。私ならとっくに放り出している。その上、今はXをはじめとするSNS全盛で、瞬時に多くの人から批判されるから、編集現場はよりキツイのではないか。