多くの週刊誌も部数低迷で苦しんでいる
「単なる覗き趣味だとしたら週刊文春は便所紙雑誌だ」
こういったのは橋下徹元大阪府知事である。
週刊文春(2月8日号)の「松本人志問題『私はこう考える』」で、文春に書かれた側は、社会的に抹殺され、最後は命を絶つ場合もあるのだから、書く側には覚悟と責任を意識してもらわないと困るとして、もし単なる覗き趣味で松本人志など、有名人たちのスキャンダルをやっているのならば、便所紙雑誌だと語った。
橋本氏は、「文春砲」と騒がれ出した当時の編集長が「人間の内面を抉り出すのは面白い」的な話をしていたことに違和感を覚えたらしいが、この編集長というのは新谷学氏のことであろう。
便所紙という言葉は懐かしい。昔、新聞は重宝したものだった。紙面をろくに読まなくても、弁当の包み紙や畳に敷いたり、小さく切って便所の落とし紙にも使えた。
だが今は、トイレが水洗になったため、新聞は便所紙にもならない。
したがって、役に立たない新聞が売れなくなるのは当然なのである。多くの週刊誌も部数低迷で苦しんでいるが、私が現役編集長だったら、「便所紙雑誌、上等」と啖呵の一つも切りたいところだ。
新聞・テレビができない「権力者の正体」を暴く
私が現場にいた頃、自分がジャーナリストだと思ったことも、メディアの役割はなどと考えたことは一度もなかった。たかが週刊誌、読み捨てで結構。
1956年に週刊新潮が創刊し、新聞社系週刊誌をあっという間に駆逐したのは、新聞、テレビができない権力者の金脈や女性問題を暴き、彼らの正体を満天下に晒したからであった。
権力者=政治家や財界人ではない。芸能界、スポーツ界、文壇の中にも“ドン”といわれる人間はいる。そいつらの仮面を剥ぎとり生身の姿を伝える。それが週刊誌の役割だと、私は教えられ、後生大事に守っていた。
思えば幸せな時代だった。マガジンハウスが出していた『平凡パンチ』(1964年創刊)は、編集者たちが海外(主にアメリカ)へ行って、流行の最先端のファッションや遊具を自分で試してみて、これはと思うものを誌面で紹介していた。
私のようなカネのない若者たちは、大学近くのしょぼくれた喫茶店に入り浸り、ボロボロになった『パンチ』を貪るように読んだものだった。