姪と甥への「愛の告白」

私は姉のおかげで子供の世界がどれだけふわふわしていて繊細かを知った。妹が生まれ、突然赤ちゃんからお兄ちゃんになったジュンはある日、「ジュンはどうしてこんなにかわいいの?」という質問に「大きくなってないから」と答えて私をどきりとさせたことがあった。よくよく聞いてみると、公園で会ったおばあさんが「あれぐらいのときがいちばんかわいいよ。大きくなってごらん」と言うのを聞いたという。自分より小さい存在が生じた子供にとってその言葉がどれだけ恐怖だったことか、想像に難くない。

それ以来、「ジュンは大きくても大きくなくても本当に大切な存在だよ。叔母さんはジュンが大きくなってもならなくても大好きだよ」と何度も言ってあげた。そのことがあってから、ジュンにも妹のソルにも「かわいいね」、「お利口さんだ」、「よくできたね」よりも「大好きだよ、ジュン」、「私の大事なソル」みたいな言葉をかけるようになった。

母方の伯母が私に向けてくれた温かいまなざしを私もジュンとソルに与えることができているだろうか。そんなことを気に病みながら2人の子供に私の愛をせっせと告白しているところだ。

「なぜ自分の子を産まないのか」という質問

ジュンとソルを溺愛している私に、まわりの人は「そんなにかわいいなら、自分の子を産めばいい」と言う。それに対して私は真面目に、「いい叔母さんになるだけで精いっぱいなのに」と返す。人は私が子供のいない寂しさをジュンとソルをかわいがることで埋めていると思っているのだろうが、私には母方の伯母というすばらしいロールモデルがいて、彼女のおかげで子供の世界にはいろいろなタイプの大人が必要だということを知っている。

母や父といった主養育者、伯母のように近くにいて無償の愛を確信させてくれる親戚や知人、スーパーで何か悪さをしてしまったときに叱るのではなく安心させてくれる従業員、過ちを犯したら愛のある説教をしてくれる師匠……。

私にとって伯母は主養育者である両親の次、つまり3番目に好きな大人ではなくまったく別の領域で私を育ててくれた人で、私と伯母の間にある連帯関係は、私と両親の間のそれとは完全に別次元のものだ。そんなふうに人生の重要な瞬間に現れ、ふわふわで繊細だった私の世界をよい方向に導いてくれた大人が確かにいた。

私は自分の子を産む計画はないけれど、ジュンとソルにとって意味のある存在になるつもりだし、道端で出会う多くの子供たちが傷ついたまま一日を終えることがないよう、社会の共同養育者としての役割を果たすつもりだ。

食堂や交通機関で子供が泣いているとき、それを黙認するのは寛容なのではなく現代市民の義務であるということを忘れず、ノーキッズゾーン(注)が明らかな児童嫌悪であるということを機会があるたびに話すこと、道を聞いたり助けを求める子供がいたら、丁寧に最大限の手助けをすること、ジュンとソルを含むすべての子供たちが、自分がどんな存在であっても、どんな存在を愛していても安全を感じられるよう私にできる行動を起こし、文章を書くこと。それが社会の共同養育者の一人として生きる私にとって重要な養育活動だ。

(注)レストランや居酒屋、ナイトクラブなど子供の立ち入りが禁止されている場所。韓国で2014年ごろから広く使われはじめた用語で、2023年現在、500カ所以上あるとされている。

写真=iStock.com/NataliaDeriabina
※写真はイメージです