祖父の吉宗から帝王学を授けられ、武芸にも優れていた
家治は「文武の御芸」に優れていたといいますが、それもまた祖父・吉宗の後見があったからでした。「弓馬」を嗜んだという家治ですが、特に弓は「精妙」であったとされ、若いときに飛ぶ鷹を射止めたとされます。白鳥を「一矢」で射落とし、お供の人々を驚かしたとの逸話もありますので、家治の武芸の達者ぶりが分かります。
武家の棟梁として必要な要素の1つを家治は備えていたと言えましょう。さて、そんな家治が10代将軍となったのは、宝暦10年(1760)のことでした。父・家重の隠居により、徳川宗家を継承した家治は、その翌日、老臣・松平武元を御前に呼び寄せたそうです。そして次のように語りました。
23歳で将軍となり、火事のときは江戸市民の心配をした
国家の政務を担うということがいかに重責であるか、家治はそのことをよく理解していたのです。また、若く経験不足であることを自覚し、年長者を敬い、諫言を受け入れる姿勢を示したことは、家治の謙虚さを現しています。それもまた、上に立つ者の態度として大切なことでしょう。
江戸時代は火災が頻発した時代でしたが、家治の治世においても江戸で火災が発生し、城下の武家屋敷、町屋が多く焼亡したことがありました。その日、家治は「山に登り、火のありさまを見て参れ」と近習に命じます。年若い近習はわれ先にと、喜び勇んで飛び出して行こうとしたそうです。すると家治は「しばし待て」と言うと、次のように言葉を継いだとのこと。
「火災は民の憂いの大きなものだ。民の憂いはすなわち、わが憂いである。土地の遠近、火の緩急により対策のすべもあろうというもの。お前たちもその心持ちでよく見て参れ」と。その家治の言葉を聞いて、老臣は「ここまで民の憂いをお考えになられるとはかたじけない」と感動したそうです。