出産10日前に最愛の人が亡くなったことを知らされる
それを聞いて、笠置はその場で泣き伏したというが、泣きたいだけ泣いた後にはこんなことも言っている。
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
ドラマでは病気の養母・ツヤ(水川あさみ)と長く離れていたものの、かろうじて死に目には会えたが、笠置は会えなかった。さらに、史実ではエイスケの死に目にも会えなかった上に、出産間近に訃報を聞かされたのだから、現実はドラマの何倍も残酷だったのである。
自伝にはエイスケの死を知った20日からの「日記」がある。23日分では、ドラマと同じく預金通帳が矢崎のモデル・前田から手渡されるくだりが記されている。通帳の名義は吉本静男となっており、もし生まれてきた子が男だったらそう名づけるというのが遺言だったという。
前田は使用人全員を枕元に呼んで礼を言ったことなどを語ったが、続く言葉には若干の違和感を覚えなくもない。
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
エイスケの寝間着を抱きしめながら一人で出産した笠置
ドラマでは、愛助はトミにスズ子との結婚を認めてもらうよう何度も懇願し続け、村山興業を捨てるとも言った。しかし、笠置の自伝を現代に生きる我々の価値観で読む限り、史実のエイスケは最期まで笠置の夫や、そのお腹の子の父である前に「吉本興業の御曹司」だったという印象が拭えない。
しかし、自伝にそうした恨み言は全く登場しない。
笠置が女児を分娩したのは、6月1日。自伝にはこんな記述がある。
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)