出産10日前に最愛の人が亡くなったことを知らされる

それを聞いて、笠置はその場で泣き伏したというが、泣きたいだけ泣いた後にはこんなことも言っている。

「いちばんお可哀かあいそうなのは御寮さん(編集部註:吉本せいのこと)でッしゃろう。いろいろの夢をつないでいた一人息子に先立たれはって……」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ドラマでは病気の養母・ツヤ(水川あさみ)と長く離れていたものの、かろうじて死に目には会えたが、笠置は会えなかった。さらに、史実ではエイスケの死に目にも会えなかった上に、出産間近に訃報を聞かされたのだから、現実はドラマの何倍も残酷だったのである。

自伝にはエイスケの死を知った20日からの「日記」がある。23日分では、ドラマと同じく預金通帳が矢崎のモデル・前田から手渡されるくだりが記されている。通帳の名義は吉本静男となっており、もし生まれてきた子が男だったらそう名づけるというのが遺言だったという。

前田は使用人全員を枕元に呼んで礼を言ったことなどを語ったが、続く言葉には若干の違和感を覚えなくもない。

「笠置はんのことは本家(編集部註:吉本せいのこと)に何もいやはらしまへんでした。なんせ、几帳面なお人やよって、親の許さぬ恋として、喉元までせきくる言葉を押し戻しはったんだっせ。本家もそれと察して、なんか、もういい残すことあらへんのか、と何度も何度も声を強めはりました。ぼんは静かに眼をつぶってはったが、その何度目かに薄目を開けられて、たったひとこと、ほかのことはみな前田にまかしてあるよって、よろしうお願いします……」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

エイスケの寝間着を抱きしめながら一人で出産した笠置

ドラマでは、愛助はトミにスズ子との結婚を認めてもらうよう何度も懇願し続け、村山興業を捨てるとも言った。しかし、笠置の自伝を現代に生きる我々の価値観で読む限り、史実のエイスケは最期まで笠置の夫や、そのお腹の子の父である前に「吉本興業の御曹司」だったという印象が拭えない。

しかし、自伝にそうした恨み言は全く登場しない。

笠置が女児を分娩したのは、6月1日。自伝にはこんな記述がある。

「お産も軽かった。三十歳過ぎての初産は苦労するといわれていたが左程でもなかった。あれこれ考えるとエイスケさんの霊が私たち母子を守ってくれているからだというような気がする。私は陣痛に襲われると、衣紋竹からエイスケさんの寝巻を外ずして(本文ママ)貰って、それをぐっと抱きしめてわが子を生んだのだ。エイスケさんの残り香が私の身体を包んで、決して一人ぼっちでお産をするような気がしなかった」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)