「誰一人取り残さない」と言うのはたやすい
地方を見捨てる、とは穏やかではないし、ここで声高に主張したいわけでもない。
「誰一人取り残さない No one will be left behind」とは、2015年に、193の国連加盟国全てが掲げたSDGsの理念である。この理念は完璧であり美しい。地球上で誰一人取り残さない、それを目指しているのだから、いわんや日本国内においてをや、と言わずにはいられない。
だからこそ、誰にでもそう言えるのであり、言うだけなら簡単なのである。
地方を見捨てる選択も同じである。
言葉だけなら、いま、こうして私が書いているように、いくらでも、誰でも並べられる。復興のコスパが悪いから諦めよう、諦めさせよう、などとは、口が裂けても言えないのかもしれないが、そうであるがゆえに、誰にでも、いつでも言えるのである。
地方を見捨てる選択も、誰一人取り残さない選択も、どちらも、それぐらいたやすい。
誰も責任を取らず、「なんとなく」見捨てられる
その意味で、被災地の放送局が、発災前にはAMラジオの停波を予定していただけではなく、発災直後に停波したのは皮肉としか言いようがない。
お金がなくても、燃料がなくても、どちらもほぼ強制されるように電波を止めざるを得なかったからである。そこには見捨てる決断も、取り残さない判断も、どちらもない。金とモノ、そうした外からの強制力によって余儀なくされただけだからである。
この先、東京が、みずから進んで地方を見捨てる、わけではないだろう。倫理の面でも、気持ちの上でも、誰もそんな断定はしない。
それよりも、いつの間にか、だれも責任を取らないかたちで、なんとなく、見捨てたことになっていくのではないか。見捨てたことへの後ろめたさもないままに、なし崩しに、予算も人もモノも出さないし、出せない。
そうした未来は、そう遠くはないだろう。