朝日新聞には「絶望しかない」

「心ある人たちとは、いつかまた、日本のジャーナリズムを共に支える仲間として、一緒に働けることを願っています」。そんな言葉を残し、一人の記者が朝日新聞を去った。11月から沖縄の2大地元紙の一つである琉球新報で新たなキャリアを歩き始めた南彰記者。

政治記者としていくつも著書があり、30代にして新聞労連の委員長も務めた「名物記者」の転身は、一社員が一企業を辞めたということにとどまらず、マスメディア業界、ひいては社会で、それ自体がニュースとなって駆けめぐることとなった。

折りたたまれて置かれた新聞
写真=iStock.com/TheaDesign
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朝日在籍最終日の夜、彼が中村史郎社長らにあてたメールには、彼が朝日で抱いてきた問題意識がA4用紙で6枚にわたってつづられていた。「今の朝日新聞という組織には、絶望感ではなく、絶望しかない」と身内を痛烈に批判した内容は週刊文春電子版に全文掲載されて話題になった。

「できれば一緒に仕事を続けたかった」

彼とわたしは、2002年に朝日に入社した同期同士。新卒入社で男性、東京本社所属の政治記者である彼と、社会人採用で女性、地方総局所属のわたしとは、社内で歩んできたキャリアも、見てきた風景もまるで違う。

だが、ともに新聞社、そして新聞業界に対して抱いてきた問題意識に共通するところはたくさんあった。だから、3年前の今ごろ、当時広島総局所属の記者だったわたしが、自分自身の退社について最初に相談したのも実は彼だった。

彼は、一足先の21年7月に朝日を退社したわたしにも渦中の文章を送ってくれていた。彼から直接聞いていたので、内容自体に驚きはなかったが、「できれば一緒に仕事を続けたかった、愛すべきメンバーと引き裂かれた悲しみは決して忘れることがない」の行間に、朝日記者として、そして新聞労連委員長として、社あるいは業界が抱える課題を指摘し続けた彼の悔しさがにじんでいて、また、自分自身が抱いてきた思いも重なり、胸が詰まった。

わたしが朝日を退社した直接的なきっかけは、希望に反して東京本社社会部への異動を言い渡されたことだ。コロナ禍まっただ中の20年11月。画一的な運用が批判の的となった全国一律一斉休校が春にあり、都道府県をまたぐ移動の自粛が呼びかけられ、首都圏の感染者数が突出した状況だったころだ。