関ヶ原前夜、三成は大谷吉継に誘われて西軍側に入った

三成は形の上では引退していたが、豊臣公儀の内情をよく理解し、長期的視点も備わっていた。

三成は、吉継に勧誘されて、動揺したことだろう。家康に遺恨はない。大将としてその手腕は卓越しており、今ここで誘いを断わっても、すでに輝元は動いているはずで、そうなれば吉継は挙兵して敗北する可能性が高い。だが、景勝のもとには、友人の直江兼続が仕えている。景勝は戦意旺盛で、輝元も野心満々である。一部の大名たちが抱いている家康へのヘイトも、ほぼ頂点に達していよう。これらが結びついて大乱が勃発すれば、家康は危ういことになるかもしれない。

そして、万が一にも輝元の天下になったなら、自分の居場所は家康の天下以上になくなるだろう。そうなれば、輝元が天下を私物化することになる。公戦と私戦の境目は、すでにないに等しい。これを明確に線引きするには、公私混同を退ける人物が必要である。しかし、そのような者が今どこにいるだろうか。

もはや迷っている時間はない。三成は覚悟を決めた。吉継の誘いに乗ったのである。天下は西軍と東軍に分かれ、庚子争乱と関ヶ原合戦への道が開かれた。西軍諸将は公儀を自認して立った。

破れて捕虜となった三成の前で手を突いた本多忠勝

9月15日、西軍は徳川家康率いる東軍に惨敗した。大谷吉継は戦死した。三成は地元の近江に逃亡するが、徳川方の田中吉政に身柄を確保された。ほどなくして三成を閉じ込める牢屋へ、「東国無双の名を得し壮士」と伝わる徳川家臣の本多忠勝が訪問する。

この時のやりとりについて、関ヶ原合戦に従軍した人物の回顧録には、牢屋の番人の証言が残されている。

【意訳】(『慶長年中卜斎記』中之巻)
本多忠勝が見廻りにやってこられた。忠勝は三成に会うと畏まって両手をつき、「三成殿はご判断を誤られ、このようになられました」と述べた。しかし三成は何の挨拶もせず、寝ておられた。

このときなぜ忠勝は、これから処刑される男に、両手をついて言葉をかけたのだろうか。忠勝も三成も官位は共に従五位下である。石高は忠勝が10万石、三成がもと110万石であったが年齢は忠勝が11歳年長で、何より勝者と敗者との格差があった。ならば踏みつけても許されるはずの罪人にどうして畏まる必要があろう。

おそらくどこか心惹かれていたのだ。

もし三成が、野心や私利、または狭量な正義感で動くような人物だったら、忠勝が手をつくはずもない。

本多忠勝肖像、17世紀(写真=良玄寺所蔵品/千葉県立中央博物館大多喜城分館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons