高報酬の一方で、世襲に対する秀吉のシビアな方針

では、高禄の代償はなかったかというと、それが――あったのだ。

たとえば、一覧で2番目に記されている加藤光泰みつやす。文禄2(1593)年に死去すると、24万石は収公しゅうこうされ(取り上げられ)、子の加藤貞泰さだやすが新たに与えられたのは4万石だった。

豊臣秀吉が丹羽長秀に123万石を与えながら、その死後、子の丹羽長重に難癖をつけて12万石に減封したことは有名である。これは長秀の子が凡庸であったのではなく、世襲に対する秀吉の方針であったようだ。他にも蒲生がもう氏郷うじさと91万石の死後、子の蒲生秀行は家中騒動を収められず、12万石に減封。軍師で有名な竹中半兵衛はんべえの遺児・竹中重門も6000石しかもらっていない。

つまり、秀吉は部下に気前よく高禄を与えるが、子どもの代になるとリセットしてしまう傾向があったのだ。これは私見であるが、秀吉は二世家臣の忠誠心を信じることができず、一から主従関係を構築し直して、働きに応じて家禄を上げようと考えたのではないか。そうなると、高禄を継承させずにいったん減封してから、引き上げた方が都合がいい。ところが、かれらの家禄を引き上げる前に、秀吉が死去してしまった。

また、仮に秀吉が長生きしたとしても、天下統一後には武将の出番(=家禄を引き上げるチャンス)がないので、みん・朝鮮に出兵して新たに戦場を創出しなければならない。秀吉モデルの人事政策だと、朝鮮出兵は不可避だったことがよく分かる。

写真=時事通信フォト
静岡駅前の徳川家康像(=静岡県静岡市、2020年11月21日)

「なかなか家禄を上げないが、下げもしない」という家康の人事

これに対して、家康の人事政策は「家禄をなかなか上げないが、世襲による減封もしない」という安心設計である。

筆者の本業はソフトウエア技術者で、おそろしく活躍してボーナスが1年で40万円くらい上がったときがある。その頃の人事面談で上司が冒頭に漏らしたのが「(人事は)急には上げられないんだよね~」という一言である。これじゃあ、やる気もダダ下がりだが、正しい側面もある。昭和の人事モデルはなかなか上げない(昇進させない)代わりに、なかなか下げないのである(当時はもう平成だったが)。

三河家臣団の忠誠心は、安心設計の家康人事だからこそ生まれたのだろう。自分が死んでも子どもが報われるから頑張れるのである。大河ドラマ「どうする家康」で鳥居元忠とりいもとただ(音尾琢真)が伏見城で壮絶な討ち死にを遂げ、視聴者の感動を呼んだ。犬死にではないかという声もあったが、かれの死は無駄ではなかった。江戸時代に鳥居家の子孫は何度か不祥事を起こしたが、時の幕政担当者も鳥居家を改易することができず、現在まで続いているのだから。