戦前は秀吉流人事の三井が圧勝していた
「なかなか上がらないが、なかなか下げることもしない」家康人事は、昭和の人事モデルに似ている。ここで、「昭和の人事モデル」といっているのは、正確にいえば、「昭和のうちでも戦後の日本的経営における人事モデル」である。昭和でも戦前であれば、その様相は一変する。
戦前の財閥でいうと、三井は秀吉流のメリハリの利いた人事。三菱は家康流の安定的な人事だった。三井は商業、三菱は製造業が主体で、望まれる人物像が違ったからだ。
三井の代表的な企業は三井物産。今風に言えば、0から1を創るアイデア企業。団体戦より個人戦が得意。個人の才覚こそが企業発展のカギで、そんなものは教育してできるものではない。優秀な人材は育てるのではなく、見いだして抜擢するもの――そんな感じだ。
三井物産では各部・各支店が独立採算制を敷き、好業績の部署・人材には思い切ってボーナスを弾むことを惜しまなかった。信賞必罰で、5円(現在価値で約1万円)ぐらいの昇給が普通だったときに、成績を上げたものは一挙に50円(同、約10万円)も昇給したが、他方で不成績だと容赦なく左遷させられた。
戦後は家康流人事の三菱が団体戦で業績を上げた
一方、三菱の代表的な企業は三菱重工業。個人戦ではなく団体戦。一人のずば抜けた人材より、底上げされた層の厚い集団を必要とする。東大卒の優秀な技術者たちを社内教育で育てていく。技術力はおおむね経験値と比例するから年功序列だ。
三菱財閥は本社一括採用で、新入社員を各社に振り分けていたが、所属企業で差が付かないように配慮していたという。社長の「岩崎さんの考えでは、各部門に人を配分するときも、本社が任命して、お前は倉庫をやれ、お前は銀行をやれという具合にやったわけだから、実績は必ずしも本人だけの責任ではない。したがって儲からんから差別をつけるというのは道理に合わないことになる」(野田一夫『財閥』)と述懐している。