三菱は本社一括採用、年功序列で三井式を採り入れなかった
そうはいっても、三井が大々的に抜擢人事を行うと、三菱でもマネしようという声がおのずと生まれてくる。
1910年代に三井物産常務・山本条太郎が若手社員10名を抜擢し、5割の増給を実施した。三菱でもこのような思い切った社員抜擢による効果を狙うべきだと意見が出たが、三菱の社長はエラかった。「この三井の抜擢は山本氏あってこその優れた措置であるが、三菱に果たしてそれを査定する山本氏に匹敵する人物がいるであろうか。若し抜擢に的確性が欠ければ、効果どころか著しい弊害が起こるであろう」と指摘し、抜擢人事を行わなかったという(向井忠晴追想録編纂委員会編『追想録 向井忠晴』)。
戦前の日本で三井財閥が一番だったのは、その人事政策が奏功していたからだろう。ただし、戦後に日本経済が製造業主体で急発展していくと、三菱のやり方がフィットした。三菱グループが三井に代わって日本最強の企業集団になったのは、経営者や個々の従業員が優れていたことは言を俟たないが、むしろ適者生存の法則に則ったものである。
高度成長期の戦後には家康ブームが到来したが…
戦前は秀吉流の三井財閥が一番だったが、戦後は家康流の三菱グループがナンバーワンに躍り出た。だから――というわけではないが、高度経済成長期(1950年代中盤~70年代中盤)には家康ブームが到来した。
明治維新後、江戸幕府を代表する家康は嫌われ、立身出世の代表選手・秀吉人気が爆発した。ところが、1950~67年に山岡荘八が新聞小説で『徳川家康』を発表すると、特に経営者層に莫大な人気を得た。経営者たちは、家康の政治手法が日本的経営に類似していることを直感的に嗅ぎ取ったのだろう。
かくして、経営者は成功者・家康に似せた日本的経営にますます自信を深めた。現在はその反動時期といえるかもしれない。では、秀吉流が復活するのかといえば、そうはいかないと思う。
1980年代に脚光を浴びたのは、TVゲーム『信長の野望』に代表される、織田信長、伊達政宗などのスタイリッシュな部将たちである。出世欲丸出しの秀吉はむしろ人気がない。
筆者は秀吉のようには出世欲がないので、たとい大出世できても信長のような苛烈な上司には関わりたくない。
カッコイイ信長が好きな若者たちもきっと同じであろう。結局、家康が理想の上司といえるのかもしれない。