当初は石田三成が反乱軍だった

石田(治部少輔)三成が、会津討伐に向かう途中の大谷(刑部少輔)吉継を居城の佐和山(滋賀県彦根市)に呼び寄せ、挙兵計画を打ち明けて協力を打診したのは7月10日ごろだった。最初は渋った大谷刑部だが、結局、兵を率いて佐和山城に入り、2人が挙兵するという話はすぐに蔓延した。

だが、当初は「大坂はすでに乗っ取られている」どころか、その逆の状況だった。まず豊臣三奉行の一人、増田長盛は7月12日付で、遠征先の家康に「今度樽井に於て、大刑少(大谷刑部少輔)両日相煩、石治少(石田治部少輔)出陣の申分、爰元雑説申し候」と書かれた書状を送っている。刑部が病気で2日間滞留し、三成が出陣するという雑説が流れている、という内容である。

石田三成と合流した大谷刑部。落合芳幾画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

さらに、徳川四天王の榊原康政が秋田の秋田実季に宛てた手紙(7月27日付)には、上方で三成と刑部が謀反を企てたので、大坂にいる淀殿や三奉行、前田利長らから、家康には急いで戻ってきてほしいという書状が届いた、という旨が書かれている。

つまり、少なくとも7月12日の時点では、大坂では淀殿のほか増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行も三成の挙兵に困惑し、事態を鎮静化するために急いで戻ってほしいと懇願していたことがわかる。加えて、伏見城の留守居をまかせてきた鳥居元忠から、三成方の軍勢に包囲されたことを知らせるために、7月18日に発った使者が家康のもとに着いていた。

ここまでの情報を得て開かれたのが、小山評定だった。

正規軍→反乱軍になった家康

たしかに三成は挙兵したが、淀殿も三奉行もそれに困惑し、彼らから西に戻るように懇願されている。そういう状況なら、従軍している福島正則、浅野幸長、池田輝政ら豊臣系の諸将を、自分に味方させるのは難しくはなかっただろう。結果として、豊臣系の諸将は全員が家康に味方し、三成らと戦う意志を明確にした。

こうして豊臣系諸将は、小山評定の翌日の7月26日からいっせいに西上し、まずは福島正則の居城、尾張(愛知県西部)の清須城(清須市)に集結することになった。一方、家康は残って上杉方への防御を固めたうえで、清洲に向かうはずだった。

ところがその後、事態は急変する。前述した榊原康政が秋田実季に宛てた手紙の日付は小山評定の2日後の7月27日だった。その時点では家康方は、自分たちは大坂と一体だと認識していたことになるが、7月29日になって、大坂の情勢の激変が知らされる。

大坂では、三成と刑部の説得工作の結果、豊臣三奉行と淀殿が一転して、三成による家康討伐の企てに賛同していた。また、三奉行の要請を受けた毛利輝元が大軍を率いて大坂に向かい、輝元が大坂に着くのに先立つ7月17日、家康の非道を13カ条にわたり列挙して弾劾する「内府ちがひの条々」が出され、三奉行連名の添え状とともに全国の大名に届けられた。

こうして三成らが正規軍となる一方、家康は豊臣公儀から要請を受けた正規軍から一転、宣戦布告を受けた反乱軍になってしまったのである。