家康の人生で最大の「どうする」

7月17日に出された「内府ちがひの条々」が家康のもとに届いたのは29日で、すでに豊臣系の諸将が西上したあとだった。かなり日数を要した理由を、笠谷和比古氏は「道が西軍勢力によって封鎖されていたことによると考えられる」と記す(『論争 関ヶ原合戦』)。

こうして重大な情報の到着が遅れた結果、次のような状況になった。三成の挙兵に対し、大坂から家康に事態の収拾を依頼する書状が届いたため、家康は小山評定において自信をもって三成打倒を訴え、豊臣系諸将の了解を得た。ところが、諸将が西に向かって出陣したのち、家康は大坂から宣戦布告を受け、反乱軍にされてしまった。

家康はどれだけ焦ったことだろうか。小山評定の時点では、三成らを討伐して豊臣政権において圧倒的な主導権を握るチャンスだと思っただろう。ところが、諸将が出発したのちに、自分は豊臣政権にとっての討伐の対象になってしまった。それは家康に従うと誓った豊臣系の諸将にとっても、驚愕すべき状況の変化だった。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
「三方ヶ原」の時よりも悩んだ 徳川家康三方ヶ原戦役画像(画像=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そもそも、上杉討伐の際に家康に付き従っていたのは、主として豊臣系の大名で、彼らはあくまでも豊臣家のために上杉景勝を討とうとしていた。討伐の対象が石田三成に替わっても、目的に変わりはなかった。ところが、その豊臣家が三成ではなく家康を討伐するよう全国に指令を下したことで、小山評定で諸将が家康に従う決断をした際の前提条件は、完全にひっくり返ってしまったのである。

もはや、西上した豊臣系の諸将が、反転して家康に襲いかかってきてもおかしくない状況で、家康はどうしていいかわからなかったに違いない。家康の人生のなかで、これほど「どうする?」と煩悶したことはなかったのではないだろうか。究極の“どうする家康”。それがNHK大河ドラマでは完全にスルーされてしまったのだから、驚くほかなかった。

脚本家の勉強不足が原因ではないか

冒頭で述べたが、大河ドラマでは小山評定の前に、大坂方による反家康の動きが、すべて家康のもとに伝わっている前提で話が進められた。そのため、豊臣秀頼のお墨付きをもらっている立場から反乱軍に転落するという劇的な展開と、それを受けての家康の煩悶を、描きようがなくなった。これはひとえに、脚本家の勉強不足が原因なのではないだろうか。

家康は自身が討伐の対象になったと知ったのち、8月4日に小山を発つが、翌日には江戸城に入っている。そして、そこに籠ったまま1カ月ほど動かなくなってしまった。

大河ドラマでもその間のことは描かれ、家康が江戸で各地の武将たちに宛てて書状を書く場面が映し出された。事実、この時期に家康方、三成方の双方から、数百通もの書状が北は津軽(青森県)から南は薩摩(鹿児島県)まで全国を飛び交った。だから、家康が江戸で書状をしたためる姿は、史実を反映しているといえるが、問題はこの間の家康の焦り、すなわち「どうする」と思い続けた心中がまったく描かれなかったことにある。

家康は調略の手紙を書くために江戸にとどまったのではない。豊臣系の諸将が小山で誓った前提が崩れ、彼らの行動が読めなくなったため動くに動けず、「どうする」か思い悩んだ1カ月だったのである。