まだ10代の実母は乳が出ず、里帰り出産した養母が授乳を

さて、どんなことが笠置の運命の転換点になったのだろうか。それは乳児をかかえて賃仕事ちんしごとをして、家計を切り盛りしていた笠置の実母が、乳の出が悪かったことにあった。

乳呑児ちのみごに一日じゅうピイピイ泣かれては、仕事もはかどらない。そんなとき、亀井うめという大阪に嫁いでいた女性が、出産のため引田町の実家に里帰りしていた。次男を無事に生んだうめは、どういう経緯いきさつがあってかはっきりしないが、親切にもシズ子のために哺乳を買って出てくれたのである。

後年、笠置はうめのことを「義侠心ぎきょうしんがある」と評しているが、そんな心で授乳を引き受けたのだろう。

うめは、引田町の多額納税者でメリヤスと手袋工場を経営する中島家当主の妹だった。人情家で世話好きのうめは、大阪で薪炭しんたんや米・酒をあつかう仕事をしていた亀井音吉と所帯を持っていて、すでに長男もいた。

哺乳が2カ月もつづいた頃には、情も移り手放すのが惜しくなるのは人の常である。うめにとっては男の子二人に女の子だから、余計そんな気持ちが強くなってきたのかもしれない。

笠置は養母うめのことを「義侠心がある」と評した

いっぽう、生母としてみれば若い女の身空みそらで乳児をかかえ、田舎町で生計を立てていくという境遇は、今日でも決して楽ではないであろう。ましてや時代は大正である。

たぶん、親のすすめもあったのだろう。生母は、笠置を手放す決心をしたのである。

いっぽう、裕福というほどではないうめが、笠置を「可愛いから」「情が出て」という理由だけで、夫に相談もせず養子にするのだろうか。

この点に関して笠置は、養母の気持ちを自伝の中でこう推量している。

「養母の気持ちは今もってわかりません。決して私が別れ難ないほど可愛らしい子供だったとは思えませんので……」

と書くが、それでも持病の心臓脚気があるうえ、実の子の育ちもいまひとつで、何かのときの頼みに自分をもらう気になったのかもしれない……と想像する。

写真=朝日新聞社/時事通信フォト
1937年、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の「神風踊り」の笠置シズ子

筆者の考えるところ、どれも間違いではないだろう。いまと違って子どもは労働力という時代でもあった。

笠置が生まれて半年たつ頃、うめは同年生まれの次男の正雄といっしょに、彼女を大阪へ連れて帰ることとなった。