成長した秀頼と家康の対面は友好的に終わったが…
この二条城の会見により、秀頼は家康に臣従したとの説もあります。秀頼は家康の孫・千姫と結婚していましたし、家康の方が年齢もかなり上。「長幼の序」(年長者と年少者の間で当然守るべき道徳的な秩序)を守ったとも言えるでしょうが、同じ立場になれば、多くの人が、秀頼と同様の行動をするのではないでしょうか。
大坂の陣において、豊臣家は滅亡し、秀頼は自刃して果てることになります。その前に、徳川方は、大坂城に参集した浪人の追放や、秀頼の国替(大坂城の退去)を求めていました。秀頼がこれを受け入れていれば、豊臣家は滅亡しなかった可能性が高いと筆者は推測します。が、血気盛んな浪人たちが群れ集まっているのを解散させるのは、容易なことではないでしょう。秀頼は引き返すことができないところにまで、足を踏み入れていたのです。これが秀吉ならば、上手くこの危機を乗り切った可能性もありますが、そこはやはり温室育ちの2代目の限界があったと言えましょうか。
家康が長生きしたから秀忠も二代目として軌道に乗れた
秀忠も同じ2代目ではありますが、秀頼とは違い、偉大な父(徳川家康)が生きていました。強力な後ろ盾が生きていたことも、秀忠に有利に働いたと思います。『徳川実紀』が記すように、秀忠には武将としての才はなかったと言えますが、温厚で、父の路線を忠実に守るという「美徳」が備わっていました。「守成は創業より難し」との言葉がありますが、秀忠は守成にはうってつけの指導者だったと言えましょう。乱世向きの指導者ではなく、平時に向いた指導者ということです。
さて、関ヶ原合戦が家康率いる東軍の勝利で決着し、慶長6年(1601)1月、家康と秀忠は大坂城の西の丸にいましたが、3月3日には、豊臣秀頼と家康父子は西の丸で対面しています。その場では猿楽が演じられたそうです。このとき、秀忠と秀頼は、どのような言葉を交わしたのでしょうか。残念ながら『徳川実紀』には、その言葉までは記されていません。