亡き父・秀吉に溺愛された秀頼は母・淀殿の下で成長

さて、では豊臣秀頼はどのような人物だったのでしょうか。秀頼の母は、豊臣秀吉の妻・淀殿です。文禄2年(1593)8月に生まれています。父は秀吉と断定したいところですが、秀吉に子種はなく、秀頼は秀吉の子ではないとする説も当時からあるのです(豊臣家の家臣・大野治長が秀頼の父ではないかという異説あり)。秀頼の幼名は「ひろい」ですが、秀吉は幼い拾を溺愛しました。秀吉は幼少の秀頼に手紙を書くことがありましたが、その中には「やがて、やがて参って、口を吸い申すべく候」との文言があります(「口を取り申すべく候」との表現もあり)。

また、秀頼の生母・淀殿には「秀頼様が冷えないように、よく注意してくれ」との書状を秀吉は書いています。秀吉が秀頼をとてもかわいがっている様がわかるかと思います。しかし、秀吉は秀頼が5歳のときに病死。秀頼の行く末を心配し、家康のほか「豊臣重臣」に「秀頼のことを頼む」と懇願しての死でした。

伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(画像=江戸時代、東京藝術大学所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

まれにみる巨漢で「賢き人」だったという秀頼の実像

秀頼の実像については不明なことも多いのですが、長じてからは、身長六尺五寸(197センチ)、体重四十三貫(161キログラム)の巨漢だったと言われています(江戸時代中期成立の逸話集『明良洪範』)。また、『長澤聞書』(後藤又兵衛の小姓を務めた長澤九郎兵衛の体験を書き留めたもの)にも「秀頼公、(大坂)冬陣には御歳二十三。世になき御ふとり(太り)也」と記載されています。秀頼というと、母の淀殿の尻に敷かれた「マザコン」のようなイメージがあるかもしれませんが、あくまで『明良洪範』には「賢き人なり、中々、人の下知など請べき様子にあらず」(とても賢い人なので、他人の臣下となって、その下知に従うような様子にない)と書かれています。

秀頼の立ち居振る舞いがある程度分かるのは、慶長16年(1611)3月の京都・二条城における家康との会見ではないでしょうか。門外で下乗(乗り物から降りた)した秀頼を大御所・家康は玄関前まで出迎えます(『徳川実紀』)。これに、秀頼は丁寧な礼を述べたといわれます。家康が先ず、御殿に入り、秀頼を庭から御殿に上げました。ここで、家康は秀頼を先に「御成之間」に入れ、対等の立場で挨拶(礼)をしようと提案しますが、秀頼はそれを固辞します。秀頼が家康に上席を譲ることになるのです。