三成が挙兵したとき、兄弟の中で秀忠だけが状況を憂えた

慶長5年(1600)は関ヶ原合戦が勃発した年ですが、石田三成方(西軍)挙兵の報が、下野国(栃木県)小山にもたらされた時、結城秀康は「喜悦」し、松平忠吉は「勇み逸」ったとされます。ところが、秀忠は何となく「憂悶」(心配し、悩み苦しむこと)の表情を浮かべていたとのこと。これを見た人々は、秀忠が父・家康から廃嫡されることをこの時、心配していたのではないかとささやき合ったとされます。

しかし、『徳川実紀』は「全くそうではない」と反論しています。この時、徳川軍は、上杉景勝征伐のため出陣していましたが、景勝を討滅していた訳ではありません。そのような状況のなかで「上方の逆徒」が蜂起。両方の敵に挟まれて、徳川家はどうなってしまうのか。秀忠は廃嫡云々ではなく、徳川家の行く末を案じていたから「憂悶」の表情があったと同書は主張するのでした。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ケ原町歴史民俗学習館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀忠には「治世安民の徳」があると記した『徳川実紀』

同書は「三郎君(家康の嫡男・信康)のように、武勇にのみ誇りて、治世安民(世を治め、人心を安定させる)の徳がないのは如何なものか」と書いています。つまり、秀忠には「治世安民の徳」があると、弁護しているのです(『徳川実紀』は、秀忠の武将としての評価を低く記載していますが、それにも増して、徳があることを高評価しているのでした)。

秀忠と言えば、関ヶ原合戦直前の上田城(真田昌幸が籠る)攻めに手間取り、また悪天候もあり、関ヶ原合戦に間に合わず、家康の怒りをかったことで有名です。急いで進軍してきた秀忠に家康はすぐに対面しなかったことから、秀忠やその将兵は恐怖したと『徳川実紀』にはあります。ところが、徳川四天王の1人・榊原康政が家康をいさめたことから、無事に父子対面は成りました。この様を見て「君臣」は大いに喜んだといいます。