片桐且元は仕えていた大坂城の茶々たちを包囲する
23日に、家康が京都二条城に到着すると、幕府方の大坂への進軍が本格的に開始されることになり、25日、在京の軍勢が先鋒となって、大坂に進軍することになった。そのなかには且元の姿もあった。さらに且元は、大坂方への経済封鎖を図り、大坂城近辺の絵図を提出するなど、幕府方に最大限の協力姿勢をとっている。幕府方からの信用を得るためであろう。そして11月5日になると、且元は家康から、大坂城の包囲を命じられることになる。
同月10日に秀忠が伏見城に到着すると、同月15日に家康と秀忠はそれぞれ出陣して、大坂に向けて進軍を開始、家康は大和路を進んで住吉に着陣、秀忠は河内口を通って平野に着陣する。そうして幕府方は順次、大坂城包囲のため布陣していった。
両軍が開戦したのは26日のことで、幕府方は大坂城外に構築されていた大坂方の砦を順次攻略していった。そして最大の合戦となったのが、「真田丸」での攻防であった。ここで幕府方は大きな被害を出し、そのため戦況は膠着状態に陥る。そしてこの日、家康は茶臼山に、秀忠は岡山に着陣し、それぞれを本陣とした。
もっとも、真田丸以外の砦はすべて攻略されていたから、大坂方はほぼ惣構えの内側に押し込まれた状態になっていた。しかし、幕府方も惣構えを突破することができず、戦況は膠着化した。そのため両軍の間で和睦交渉がすすめられていった。幕府方の交渉関係者が、「茶々は対応が遅い」と観測していたのは、このときのことになる。和睦交渉は紆余曲折を経ながらも20日に合意が成立、21日に起請文が交換されて、停戦和睦が成立する。そしてその日のうちから、和睦条件であった、大坂城の惣堀の埋め立てが開始されることになる。
和睦によって大坂城の外堀を埋め、難攻不落の城が丸裸に
これをうけて家康は、25日に茶臼山を引き払って二条城に戻り、且元もこれに続いて退陣し、26日晩に京都に家康を訪れている。なお且元は、この冬の陣終結にともなって、家康から1万石の加増をうけて、あわせて4万石を領知することになっている。いうまでもなく、この合戦における功績によるものであろう。
幕府方軍勢による大坂城の堀の埋め立て作業は、年が明けて慶長20年(元和元年)正月末頃には完了をみて、それにともなって幕府方軍勢は順次、退陣していった。そうして大坂城は、本丸のみが残された、事実上の裸城になった。ひと頃までは、それら堀の埋め立ては幕府方の策略とみられていたが、現在では、史料をもとに、そもそもの和睦条件であったことが確認されている。