「あとからセパレートの着物ができましたが、私の時は普通の着物でした。ある時、(著名なファッションデザイナーの)イヴ・サンローランさんが搭乗され、着物をしげしげと眺め、いろいろ質問されたことが記憶に残っています。この着物は、機内で1名だけが担当になって着用するのですが、新人が着ることが多かったですね。当時は30歳が定年でしたので、乗務経験は10年ほどです」

写真=福田さん提供
客室乗務員として働いていた福田さん。

夜間飛行に備えた深いクッションのラウンジ・チェアもあったようだ。リクライニングはかなり後ろまで倒れ、足元もゆったり。追加料金を支払えば、「バース」と言われる寝台も利用することができた。機内でフルフラットになる環境は航空事業当初から存在していたのだ。

当初パイロットに日本人はいなかった

機内サービスにおける案内には別の面白い記述もある。

「機内ではきつと皆様の御満足を頂ける日航自慢の御食事を無料でサービス致しております。その他御希望に応じて御飲み物お煙草も取り揃えておりますので、スチュワデスにお申し付けください。なお、飛行中と途中降機地でのこれらのサービスは一切無料でございます。スチュワデスその他の者への御心付けは固くご辞退申し上げます」

無料であることが2回も出てくる。心付けという表現も含め、日本人の慣れない国際化への指南をしているようで興味深い。

写真提供=福田さん
機内でカメラを手にしながら乗客に接する福田さん

また、当時の国際線パイロットはアメリカ人であり、日本人はいなかった。機長はもちろんのこと、副操縦士もアメリカ人で100万~200万マイルの飛行距離で2200回も飛んだ経験者と書かれる。連合国軍総司令部(GHQ)の指導で戦後の翼を地上に置いた日本で機長のライセンスを持つ者はいなかったからだ。日本人機長候補者は、同じ操縦席のうしろに座り、外国人操縦士からノウハウを学んでいた。

世相を反映して興味深いのは、「KANGEI」のパンフレットにて案内されている次の一文だ。

画像=筆者提供
KANGEIと題する機内パンフレット。(1956年)「御希望があれば(乗客を)喜んでご紹介申し上げます」と書かれている。現代ではありえないサービスだ。

「旅は道連れ 日航機で太平洋を越えられることは、いろいろな方に会われる本当に都合のよい機会でございます。お客様は皆、面白い話題の持主であり、豊富な海外旅行の経験をお持ちの方も多いことでございましょう。貴方がお仕事でご旅行の場合でも、御一緒に御搭乗されたお客様の中には共通の興味を持たれる方がきっとおいでになることと思います。御希望があれば喜んでご紹介申し上げます」

個人情報が厳格に守られる現在ではこのようなサービスは許されるものではないが、当時のゆるやかな旅の行程が思い浮かぶようだ。