どんなときも逃れる道はある

カリスマ性や統率力があるわけでもない自分には務まらないと、一度はお断りした校長職でした。しかし、引き受けたからには全力で取り組むと決め、多くの方に助けられながらここまで進んできました。

けれど今でも「ほかの方であれば、もっとよい選択ができたのではないか」「あのときの判断は正しかったのだろうか」という思いは残ります。また、元来の自信のなさが顔を出し、試練を前にひるみそうになるときもあります。

それでもどうにか進んで来られたのは、「あなたには逃れる道も備わっている」という聖書の言葉があったからです。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 10章13節

前半の「乗り越えられない試練はない」という部分はよく聞く言葉ですから、もしかするとあなたも聞いたことがあるかもしれません。また、つらいときや苦しいときに、この言葉で自分を鼓舞した経験があるかもしれません。

しかし、その次の「逃れる道も備わっている」と教える部分が、私にとっては大きな支えとなりました。自信のない私を強くし、困難のときに勇気をもって前進する力をくれました。

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違う道を選んでもいい

人がなにかを選択するとき、「この道でがんばるしかない」と考えると逃げ場がなくなります。でも、どんなときも進む道はひとつではなく、さまざまな道があるのです。そう知っていれば、安心してチャレンジできます。

もちろん、「逃れる道」があるからといって、自分の力を試すこともなく逃げればいいといっているわけではありません。

わが学園の前理事長シスター渡辺和子が著書『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)でおっしゃっているように、自分が置かれた場所で咲こうと努力するのは尊いことです。私もそうできるよう、必死で進んできました。

その過程で、時にくじけそうになる心を支えてくれたのが、この言葉だったのです。

「逃れる道」はすでに備わっているのですから、まっすぐ進まず、違う道を選んでもいい。あるいは、今の道をひたすら前進すれば、その先で思わぬ方向に道がひらけているかもしれない。

だから、試練と向き合ってみよう。そう思い定め、自分がやると決めたことに取り組むことができました。

試練が訪れたとき、「逃れる道」をみつけるためには、時にはひと休みすることです。先を急がず一歩ずつ進むことです。

そうやって進んでいけば、その先に必ず自分という花を咲かせる道があります。