源氏物語に大きな影響を与えた親王

こうした前提で以て、再び紫式部の出自に目を向けると、彼女の父方祖母の姉妹の孫には具平ともひら親王がいる。

具平親王は当時、最も尊敬されていた文壇の中心人物だ。道長は、この親王の娘に長男・頼通を縁づけているのだが、その時、紫式部を、

「親王家に縁故のある人」(“そなたの心よせある人”)

と見なして相談していた。

紫式部の父・為時はかつて具平親王の家司けいしであったらしく、紫式部もこの宮に仕えたことがあったらしい(新編日本古典文学全集『紫式部日記』校注)。紫式部はそれにつけても、

「心の中ではさまざまな思いに暮れることが多かった」(“心のうちは、思ひゐたることおほかり”)

と書き、彰子の皇子出産とその後の華やかな祝いの有様を綴っていた『紫式部日記』は、この記事を境に暗いトーンに転ずる。

実は、紫式部の父方いとこの伊祐これすけの子の頼成よりしげは、具平親王の落胤らくいんである。そう同時代の藤原行成の日記『権記ごんき』(寛弘八年正月条)に書かれている。

ちなみに具平親王は、『古今著聞集』によると、“大顔”と呼ばれる雑仕女ぞうしめめ(下級女官)を“最愛”して子をもうけ、大顔は月の明るい夜、親王に伴われて行った寺で“物”(物の怪)にとられて変死しており(巻第十三)、『源氏物語』の夕顔のモデルとされている。

紫式部と親密な間柄だった権力者

大顔のような下級女官がお手つきとなって継続的に愛されるのは珍しいだろうが、女房クラスの女が愛されることはありがちで、紫式部も道長の“召人めしうど”といわれる。

召人とは、主人と男女の関係になった女房のことで、妻はもちろん、恋人とすら見なされていなかったものの、普通の女房よりは上の立場である。

紫式部は夫と死別後、まだ幼い子を抱え、道長の娘・彰子の家庭教師として仕えるが、南北朝時代にできた系図集『尊卑分脈』には“御堂関白道長妾云々”とあり、道長の召人でもあったことはほぼ通説となっている。

しかも紫式部と道長の6代前の先祖は同じ左大臣藤原冬嗣であり、道長の正妻の源倫子の母・藤原穆子は、紫式部の父・為時の母方いとこに当たる。

作者不明『紫式部日記絵巻』の藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons