なぜ推古天皇の治世は35年間も続いたのか

どうして推古天皇の治世が三十五年間も続いたかというと、簡単に言えば天皇終身制で譲位の慣習がなかったからです。継体天皇から安閑天皇への譲位はほぼ危篤状態での譲位で、余生を過ごす前提ではありませんから、常例ではなく、当時の人の頭に無かったとしても不思議ではありません。

さて、当時の朝廷で最大の権力者である蘇我馬子は、第二十九代欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘である額田部皇女を第三十三代推古天皇とします。異母兄である第三十代敏達天皇の皇后でもありました(正確にはこの時点で未亡人なので、皇太后)。馬子から見れば姪にあたります。この時代、数えきれないほど皇子はいますから、父子継承をやらずに兄弟継承をやっていれば、皇位継承候補者は無数になります。候補者が多いということは、争いが激しくなります。継体天皇以降は間違いなく豪族たちが認めないと天皇になれませんから、若くて実力がない皇子は不可。幼帝は論外です。じゃあ、「年齢」「実力」ってどうやって決めるかというと、その時の政治力になります。

推古天皇二(五九三)年、聖徳太子が摂政になります。十九歳。女帝・太子・馬子の三頭体制になります。

よくある説に、「推古天皇は馬子に対抗するために聖徳太子を擁立し、いずれ天皇に即位させようと考えていた」があります。逆に、太子晩年の時期に、馬子と推古天皇が不倫の関係にあったという説もあります。本当だとすれば、推定年齢約七十歳と約六十歳なので、かなりの老いらくの恋です。

ワンポイントリリーフを続けざるをえなかった

それはどうでもいいとして、一番若い太子が四十九歳で真っ先に亡くなりました。推古天皇は七十五歳くらいまで生きました。超長寿です。四十歳で即位したときに「十年くらいは中継ぎで」と考えたとしても不思議ではありません。

倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)

つまり、後継者のはずの聖徳太子が推古天皇より早く死んでしまったので、ワンポイントリリーフを続けざるをえなかったと考えれば不自然はありません。ただし、長寿となれば、天皇として政権を担います。実力者でなければ務まりません。

推古朝のトロイカ体制、最近では安倍内閣が長期政権と化したのと似ています。安倍内閣では三大派閥の領袖である、安倍晋三首相・麻生太郎財務大臣・二階俊博幹事長の三人が組んでいる限り、外敵に対しては無敵でした。

しかし、この三者は政策や政局の主導権をめぐり、必ずしも一枚岩ではなく、常に不協和音が聞こえてきました。ただし、どんなに対立しても最後は結束したから長期政権を維持しました。

歴史上、女帝・太子・馬子のような関係は、頻出します。

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