推古天皇は「日本で最初の女帝」なのか

さて、第二十代安康天皇以来の、天皇暗殺です。とてつもない不吉に、女帝が登場します。第三十三代推古天皇で、今では最初の女帝とされていますが、その誤りは既に神功皇后の節でお話ししました。

教科書では「最初の女帝は推古天皇」と教えていて、ここまで縷々述べてきた理由で、これが書き換わる可能性は極めて低いでしょう。ちなみに推古天皇が女帝の新儀だとして、天皇暗殺の不吉な事態への対処です。それより、こちらの説です。

通説
すべての女帝は中継ぎだ。

これは難しい。私は八方十代の内、一代だけは中継ぎではないと思っています。本書の対象外である江戸時代の明正天皇と後桜町天皇は、明確に中継ぎでした。ということで読者の皆様も、六方八代の天皇の誰が中継ぎでは無かったか、本書を読みながら考えてください。その最初が推古天皇です。

土佐光芳「推古天皇像」
土佐光芳「推古天皇像」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

現代、皇位継承問題で男系維持派の中には「女帝を認めると、女系天皇につながる。古代と違い、現代では女帝が生涯独身はあり得ないから」と主張する人がいます。それは構わないのですが、勢い余って「すべての女帝は中継ぎだった」と主張しなければならないと考えている人もいるようです。私は女帝は容認する立場ですが、政策論として現代で女帝を認めるべきではないとする立場には一理あると思います。女帝は無理やりやるものではないので。ただ、「すべての女帝は中継ぎだ」は、どうでしょう。基本的に中継ぎと思いますが、例外はお一人いると思います。

「女帝=中継ぎ」という誤解

強烈な男系派は「すべて中継ぎだ」と主張し、狂信的な女系派は「全員が本格政権だ」と主張する。さすがに、どちらも極端でしょう。

ここで参考になるのが、女系容認派で私とは意見が違いますが、博識の笠原英彦慶応大学法学部教授です。実は笠原先生の『歴代天皇総覧』(中央公論新社、二〇〇一年)を事典代わりに使っているのですが、第四十三代元明天皇の項で、女帝が当時、「中天皇」と呼ばれていた事実に言及されています。

ただ、推古天皇は在位三十五年に及ぶ長期政権となりました。三十五年の中継ぎとは何なのかという議論は確かに成立しうるでしょう。

これに対する私の回答は二つ。一つは、古代の天皇は、実質的な権力を振るう前提の存在だった。ならば、中継ぎであっても、それなりの実力がないとなれないので、額田部皇女が選ばれた。もう一つは、ワンポイントリリーフのつもりが、長期政権になった。後者の方は、よくあります。

たとえば、長期政権を築き戦後政治をリードした吉田茂は、最初は自他ともにワンポイントリリーフのつもりでした。外国の歴史ですと、神聖ローマ皇帝に選ばれたルドルフ(1世)も軽く思われていましたが、ハプスブルク家の栄光を切り開く“神君”となりました。よくある話です。