例の津田左右吉も「国司」が使われているのはおかしいと主張していますが、聖徳太子研究の大家だった坂本太郎先生は反論しています。専門的な内容には立ち入りませんが、片っ端から聖徳太子の事績を否定するのが実証主義とは思いません。後世の人が振り返る時に当時は無かった言葉を使っても、それが即座に存在しなかった理由にはならないでしょう。

聖徳太子伝説のすべて、「生まれる前にこの世を救う使命を帯びた金色の菩薩が夢の中で母の口の中に入ったら太子が産まれた」とか、「聖徳太子は生まれてすぐに七歩、歩いた」とか、「聖徳太子は七人の話を同時に聞けた」とか、「聖徳太子の予言書には南北朝の動乱が書かれていた」とか、そのまま信じよとは言いません。

マトモな人は、聖徳太子伝説のすべてを信じていた訳ではなく、その中から何らかの事実を抽出してきました。そのすべてを否定するのも、すべてを肯定するのも、同じように非科学的です。

法隆寺中門と五重塔(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

もう一つの「古代史のウソ」

第三十二代崇峻天皇は、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒に暗殺されてしまいます。『日本書紀』は、天皇が狩りの獲物の猪の首を指さして、「この猪の首を切るようにアイツの首を切りたい」と呟いたので、馬子が先手を取って暗殺したことになっています。異説では、讒言だったことになっていますが、とにかく馬子は天皇を暗殺しました。

この時、聖徳太子が自分にとって従兄弟で崇峻天皇の皇子の蜂子皇子を匿い逃がしてあげて東北に辿り着き、出羽三山が開かれた、と出羽三山神社社伝は伝えています。出羽三山は後の神仏習合を先駆けるような宗教施設となります。

ちなみに! 週刊誌やSNSでは秋篠宮家相手ならどんなバッシングをしても良いとの間違った空気があり、あまつさえ保守を自認する言論人までが「悠仁殿下の教育は大丈夫なのか」と公言している嘆かわしい状況ですが、黙らっしゃい。

高校生になられた殿下は、皇室史に多大な関心をお持ちになられて蜂子皇子の話を知り、出羽三山まで遠足にでかけたとのこと(令和五年七月三十日、救国シンクタンクフォーラム「皇位継承問題」より。近日、叢書化の予定)。

普通の人間、蜂子皇子の話なんか知りません。神社マニアだと出羽三山は、皇族のお墓がある東北唯一の神社と知っているでしょうが、庶民があれこれいらぬ心配をするよりも、本筋の学びをして、何をすれば「くにまもり」になるのかを知る方が、よほど大事です。