公務員を退職
2019年5月。祖母の葬儀を終えてからというもの、25歳になっていた柿生さんは勤務中にミスを繰り返したり、突然過呼吸を起こしたりするなど体調不良になることが増えていく。先輩や上司に勧められるままに精神科を受診すると、「社会不安障害、適応障害」と診断された。
その後も休み休み勤務を続けてきた柿生さんだったが、ついに2020年3月、仕事を続けることを断念。公務員を退職することを決意。
退職後は、アルバイトをしながら一人暮らしを続けた。するとちょうどその頃から、母親からの執拗な電話に悩まされるようになる。
「『お父さん、身体が痛くて仕事全然できない!戻ってきて!』と言っていたので、父の身体に何らかのアクシデントが発生したものと思われます。確かに、最後に2019年8月に帰省したときには、父はあまり歩きたがらなくなっていました」
公務員を辞めた柿生さんは、「実家に帰ろうかな」と思い始めていたが、母親の電話はエスカレートしていくばかり。アルバイト中に何度も電話をかけてきて、後でかけ直すと、「なんですぐに出ないの!」と鼓膜が破れるかと思うほどの金切り声で罵詈雑言を浴びせられる。柿生さんの都合を一切聞かずにテレビ電話を強要し、大音量で柿生さんへの不満や生活に対する不安をひたすら垂れ流してくる。
柿生さんは次第にストレスで咳喘息や逆流性食道炎を悪化させ、アルバイトも休みがちになっていった。そんなある日、柿生さんが寝込んでいると、友人が見舞いに来てくれた。そこに母親からの電話がかかってきたため、柿生さんはスピーカーモードにして母親と話す。
電話を切った後、友人は、「あんたの親ひどいよ。絶対ヤバいから。実家になんて絶対に戻っちゃダメ! 完全に毒親だから。逃げて!」と柿生さんに言った。
「昔から母は不安を感じると時間などお構いなしで私や妹に電話をしてくるのですが、確かにこのままではさらに人生を壊されるのではないかという恐怖感を抱いていました。友人の言葉がきっかけで毒親の定義を調べたところ、両親ともに全て当てはまりました」
柿生さんは、両親からの逃走計画を立て始めた。
両親からの逃走計画
柿生さんは逃走資金を貯めるため、お水系のアルバイトを始め、1年ほどしてまとまったお金ができると上京。
柿生さんの両親は、親族の反対を押し切って結婚したときから親族の中で“村八分”のような存在だったため、柿生さんは祖母の葬儀でこれまで一度も会ったことがなかった親族たちと顔を合わせた。親族たちは、「もしも次、お父さんが亡くなったら、(フィリピン出身の)お母さんには喪主はできそうにない。喪主を務めるのはあなただから」と言って、柿生さんと連絡先を交換。親族たちからはずっと、「あの両親じゃ、初音ちゃんが苦労しそうだ」と心配されていたようだ。
そのとき連絡先を交換しておいた親族を頼っての上京だった。
受け入れる親族側の準備や、逃走したことが両親にバレることによる両親の報復を恐れた柿生さんは、まずはあらかじめ調べて連絡してあったシェルターに入った。その後は行政から無料宿泊所を紹介され、1年ほど避難生活を送る。
受け入れる親族は、「初音ちゃんは介護経験もあるから安心だと思って」と柿生さんの介護経験を尊重。高齢の義理の伯母が老人ホームに入ることになったため、柿生さんに伯母が住んでいた部屋番と伯母の衣類などの洗濯や補充を依頼した。
柿生さんは親族の伯母の部屋に移ると、部屋の管理や施設先からの呼び出しの対応、通院への付き添いなどをして、親族から生活費などを出してもらい、不足分は行政から援助を受ける生活を開始する。
親族のアドバイスで精神障害者2級の申請をしたところ、精神科医から「あなたは間違いなく、『愛の手帳』(知的障害のある方へ交付される障害者手帳。申請は原則18歳以下)を取れたと思いますよ。よく公務員を3年もやれましたね」と言われ、無事申請が通る。そのため水道料金や都営バス・都営地下鉄は無料だった。