「敵」に学んで中央集権的な国家体制を整備

蘇我氏は、皇族を担いでは傀儡かいらい政権をつくり、政権へのコントロールが利かなくなると抹殺する。これを繰り返し、何人もの天皇や皇族を殺しています。

だから、聖徳太子は天皇になることを望まず、叔母の推古すいこ天皇を支えることで実権を握ろうとしました。ところが、49歳で急死してしまいます。

そのあと聖徳太子の長男である山背やましろの大兄王おおえのおうの一族を蘇我入鹿が攻撃し、自害に追い込むという事件を起こします。調子に乗った蘇我氏がついに大王や天皇の位を狙い始めると、中大兄皇子がクーデタを起こし、蘇我氏を滅ぼします。これが645年の乙巳いっしへんです。

乙巳の変を描いた江戸時代の絵巻物、「多武峯縁起絵巻」。奈良県桜井市・談山神社所有。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

このクーデタを助けたのが中臣鎌足なかとみのかまたりで、中臣氏は物部氏に仕えていた神官の家柄でした。つまり、乙巳の変は、物部勢力による蘇我氏に対するリベンジという側面もあったのです。

白村江の戦いで唐に大敗

この直後、朝鮮半島に激震が走ります。隋の滅亡後に中国を統一した唐によって、百済が攻め滅ぼされてしまうのです。

ヤマトに亡命中だった百済の王子の要請に応える形で中大兄皇子(のちの天智天皇)が百済復興の援軍を送り、ついに中華帝国軍とヤマト軍が激突しました。これが663年の白村江はくすきのえの戦いです。

結果は、ヤマト軍の大敗でした。唐からの戦後処理の遣いが、2000人もの兵士を引き連れて九州に上陸し、ヤマトに対して脅しをかけてきました。軍事力の差は歴然で、まともに戦っても勝てる相手ではありません。なんとか時間を稼ぎながら、唐に対抗できる強力な国家をつくるにはどうすればいいのか。それを考えたのが中大兄皇子改め天智天皇と、弟とされる天武天皇でした。

白村江の戦いのあと30年間、唐と国交を断絶したヤマトは「日本」=「日の昇る国」という国号を採用し、中央集権国家の実現を急ピッチで進めていきます。「唐に対抗するには、唐に学べ!」を合言葉に、官僚統制国家である唐の律令制に基づいた法体系や制度を取り入れた国づくりがスタートしました。

それまで「大王」と呼ばれていた君主の称号も、中華皇帝を意識して「天皇」と改められました。公地公民制を導入し、豪族の支配下にあった土地を天皇の所有としました。人民の数を把握したうえで土地を人民に分配し、徴税する仕組みをつくったのです。