また、唐の侵攻に備えて全国から徴兵した兵士を北九州に配備し、西の守りを固めました。これを「防人さきもり」と呼びます。こうして日本は、豪族連合政権の地方分権型国家から、天皇中心の中央集権型国家へと変貌を遂げていったのです。

この時の状況は明治維新に似ています。ペリーの黒船艦隊に遭遇して、「あれには到底勝てない」と衝撃を受けた日本人は、欧米諸国に追いつけ追い越せと西洋文明に学びました。敵に学んだのは明治維新が最初ではなく、そのルーツは白村江の戦いでの大敗にあったのです。

「日本国とは何か?」という自問

唐と国交を断絶した30年間は、日本人が「日本国とは何か?」を自問する時期でもありました。なぜ、われわれは大唐帝国に抵抗するのか?

この時期にスタートした重大事業が『古事記』と『日本書紀』の編纂です。この二つの書物が書かれた目的は、一つは律令制導入による日本統一を記念した出版事業だったのでしょう。

しかし、もっと重要なのは、敵である唐に対して、「わが国は神武天皇以来、連綿と続く一つの皇統こうとうが治めている文明国であり、秦の始皇帝よりも古い建国の歴史を持つ国である」とアピールすることでした。これが『日本書紀』が、漢文で書かれている理由です。

もう一つ、この歴史観を日本人自身に教えるための書物が『古事記』でした。基本的に日本語で書かれていますが、まだ仮名文字が誕生する前なので、日本語の一音一音に漢字を当てた「万葉まんよう仮名かな」が使われています。

つまり、これら二つの書物は、「唐からの独立」と「皇室の正統性」という政治的な意図で書かれた文書であり、すべてが史実とはいえないのです。