晩年は秀吉によって家康と引き離され、京都で死す

近年の研究では信康が処分されたのは、織田信長の命ではなく、家康が主導したといわれている。『当代記』では、信康が「父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽んじたてまつられ、被官(=家臣)以下に情なく非道を行わるる間かくのごとし。この旨を去月酒井左衛門尉をもって信長へ内証を得らるる所、左様に父・臣下に見限られぬる上は是非に及ばず。家康存分次第の由返答あり」と、家康が信長の同意を得るために忠次を使者として遣わしたと記している。

菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)

そうなると、忠次を悪者にしたのは、家康を嫡男殺しの汚名から解放するための『三河物語』の創作ということになる。同犯の兄の名前を出さないところも確信犯だ。むしろ、兄を表に出さないように、意識的に忠次を悪者にした可能性が高い。

後日、忠次が子・家次の禄高の低さを嘆くと、家康は「お前でも子がかわいいか」と皮肉ったといわれているが、これも創作だろう。

天正14(1586)年10月に家康が上洛した際、忠次も付き随った。秀吉は忠次に京都桜井の宅地、在京料として近江に1000石を与えた。天正16(1588)年に忠次は致仕して、慶長元(1596)年に京都で死去した。享年70。勘ぐりすぎかもしれないが、秀吉は知恵者の忠次を家康から引き離そうとしたのではなかろうか。

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