自己啓発という存在証明

しかしながら、どのような方向に進もうとも「年代本」は、これこそが勝者のたどる道だ、成功者の人生だ、本当の幸福だ――それ以外は敗者の、ぱっとしない、偽りの人生だと主張します。本田さんの著作ではさまざまな生き方があるという前置きがなされていますが、「年代本」は概して、これこそが正しい、あるべきライフコースなのだという理想形を力強く提示するものだといえます。

そもそも、30代や40代ともなれば、人にはさまざまな事情と生き方があり、それぞれの人生に簡単に「勝者の」「本当の」といった評価はできないものだと考え始めそうにも思えます。にもかかわらず「年代本」は、自分や他人の人生を二分法的に切り分けて、これこそが本当の、あるいは偽りの生き方なのだとそれぞれに断定してしまうのです。

まったく異なった方向を向いているように見える生き方のそれぞれが、「これこそが本当の生き方だ」として称揚されるということ。そしてそのような「年代本」が多く刊行され、またベストセラーにもなっているということ。これらからは、どのような人生を送っていたとしても、自らの人生航路に確信が持てず、あるべき道を力強く指し示してほしいと思う人が今日の世の中に一定数いるのだと考えることができます。

自らの人生航路について考えるとき、自分自身のことのみで話が済めばよいのですが、先に述べたように、「年代本」はときとして他人の人生を上げ下ろして眺め、また切り捨てることがあります ――それはぱっとしない人生だ、敗者の人生だ、と。しかし、自分自身が納得する生き方をしたいという切望が、他人の人生を否定することで充たされるのだとしたら、それは「勝者の」「本当の」と胸を張れるような生き方だと果たして言えるのでしょうか。

このことを考えるにあたって、少し視点を変えてみたいと思います。かつて社会学者の石川准さんは、人(特に近代以降に生きる人間)は存在証明に躍起になる動物だとし、その存在証明のために人々が行うさまざまな行動を「アイデンティティ・ゲーム」という言葉で表現していました(『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』新評論、1992)。

石川さんの言及から私はこう考えます。つまり「年代本」、ひいては自己啓発書から見えてくるのは、種々の営み――自分自身の能力を高める、自分自身の「本当にやりたいこと」を発見する、一流品を身にまとう、マネジメントの視点をつねにとる、他人を否定する等々――を通して行われる、それぞれの立場を有する著者(や読者たち)の、自己存在証明(アイデンティティ・ゲーム)の現代的なやり口なのではないか、と。今示した例の中で言えば、他人との比較を行うことは、実にお手軽で、有効な存在証明の手段ですよね。

存在証明のツールとしての自己啓発書。どのような立場の、どのような方向を向いている著者(や読者たち)が、どのような方法で自らの存在の証を立てようとしているのか。こう位置づけるとき、自己啓発書は現代社会を読み解くための、非常に興味深い資料として立ち現れてくると私は考えているのですが、みなさんはどうでしょうか。

さて、今回はかなり長くなってしまいました。次回は近年の自己啓発書ブームの中核ともいえるトピック、「ドラッカー」について考えてみたいと思います。

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