原点となった少女との出会い

卒業後、日赤病院で小児病棟を志願した川嶋さんは、12人の子どもがいる部屋に配属された。トシエちゃんと出会ったのは、働き始めて9日目のこと。脊髄の悪性腫瘍で地方の病院から転院してくる9歳の少女がいると聞いていた。

玄関へ迎えに行くと、その子は赤ちゃんのようにおくるみにくるまって母親に抱かれていた。ストレッチャーに乗せて病室へ運び、寝間着に着替えさせようとおくるみを取ると、体はやせ細って、土気色の顔は皺だらけ、まるで老婆のように見えた。背中には大きな腫瘍があり、仰向けに寝かせることもできなかった。

「今にも死にそうな末期の状態で、トシエちゃんは『痛いよう』『だるいよう』と、かぼそい声でうめいていました。どうしていいかわからず、足をさすってあげたら、その感触が魚のうろこのようにザラザラと硬くなっていて……。驚いておそるおそる毛布をはがしたら、垢の層がびっしりと足をおおっていました。何ともいえない悪臭が鼻をつきましたね」

手術を求めて病院を転々としている間、お風呂に入ることも、身体を拭いてもらえることもなかったことが分かった。そこで、まず川嶋さんはトシエちゃんの身体をきれいにしようと決めた。

「新人でしたが、ベッドでの全身清拭は実習で幾度も経験していましたし、これならお手のものだと。すぐにお湯を汲みに行きました」

大匙2杯の卵粥

脈をとると、脈拍が極端に弱く、一度に全身の清拭を強行すれば症状が悪化することは予測できた。そこで初日は足だけを洗うと決め、ぬるい湯に片足ずつ浸して洗っていく。

両足を洗い終えると、石鹸箱ですくえるほどの垢が取れ、まるでソックスを脱がせたように本来の真っ白な足が見えてきた。毎日少しずつ、上半身へと向かって拭いていき、一週間目には背中の腫瘍のまわりもガーゼでそっと拭いた。

「翌朝、最後に顔を拭いて、すっかり全身がきれいになったトシエちゃんに『どう?』と聞くと、ほっぺをピンク色に染めてにっこりと笑い、『看護婦さん、おなかが空いた』と言ったんです。それまでブドウ糖の注射だけで食事もとれていなかったから、その言葉に驚くやら嬉しいやらで。私は配膳室へ飛んでいき、大匙2杯分の卵粥をつくりました。スプーンで口もとに差し出すと、『おいしい!』と言って食べてくれて。その日からトシエちゃんは見違えるように変わっていきました」

数えるのが難しいほど弱かった脈が、通常の強さに戻り、リズミカルに打つようになった。なぜ食欲まで出てきたのかと不思議に思い、医師や婦長に報告したが、そのときの返事は「あっ、そう」と素っ気ないもので答えは得られなかった。当時は看護学の参考書も手に入らず、調べることもできなかったが、トシエちゃんが明るくなったのは明らかで、皆とおしゃべりするほどに元気になった。それから3カ月余り、9歳の女の子らしく生きることができたのだ。

「あの経験が、私自身の目を見開かせてくれました。お湯に浸して絞ったタオルと石鹼で、一時的ではあっても彼女の生きる力を引き出せたのです。身体を少しずつ拭きマッサージすることで、全身の緊張をほぐせたのだと思います。あのとき、もしそのままにしていたら、トシエちゃんの命は数日で尽きていたことでしょう。人間の身体の中には自分で治る力が潜んでいる。自然治癒力を発揮できるように手助けするのが看護なのだと、肌で感じた体験でした」

後に翻訳されたナイチンゲールの『看護の覚え書』の中にも、こう書かれていた。

〈安楽とかいうものは、それまでその人の生命力を圧迫していたのもがとり除かれて生命がふたたび生き生きとした徴候〉

新人時代に経験したこの出来事が、今日まで看護に携わる礎になっていると、川嶋さんは顧みる。

写真提供=川嶋みどりさん
川嶋さん新人時代。小児病棟にて(1951年)