共働きなんて「お気の毒ね」
看護師として奮闘するなか、さらなる人生の転機が訪れたのは26歳のとき。川嶋さんは、ともに生きる伴侶にめぐり会う。夫になった人は日赤女専時代の同級生の兄で、通産省の地質調査所の研究者だった。川嶋さんの仕事もよく理解してくれ、共働きの結婚生活がスタートした。
「あの頃は結婚したら、仕事を辞めるのが普通の時代。日赤は全寮制なので、結婚して寮を出るときは退職なんですよ。でも、私は看護の仕事が大好きだから、辞めたくなかったの」
両親は辞めるべきだと反対し、同僚には「共働きなんてお気の毒ね」と夫の甲斐性がないかのように見られることもあった。ほとんどが未婚者である職場なので、結婚当初は心ない言葉に傷つくこともしばしばあったが、家で「ちょっと聞いて! どう思う?」と話すと、夫は耳を傾けてくれた。
「夫はワンマンなところもあったけれど、私の仕事をいつも尊重してくれました。『女性の可能性を家事に埋没させてはダメだ。雑用は手の空いている方がすればいいから。そうしないと仕事との両立は長続きしないよ』『僕のお客さんが来ても、お茶を出しちゃいけない。自分でやるからいい』とまで言われて。私はそんな家庭に育っていないから、『そんなのお客さんに私が変に思われるじゃない!』と最初はかなり抵抗しましたけれど(笑)」
家事はそれぞれ得意なことを分担したうえで、できるだけ簡素化するためになるべく電化製品を取り入れて……といろいろ知恵を出し合った。やがて一人目の子を妊娠。産後8週間で職場へ復帰した。
産休明け、病棟から自分の名前が消えていて…
小児看護をライフワークにしたい。そう願っていた川嶋さんだが、産休明けにショックを受ける出来事があった。出勤すると小児病棟のスタッフ名簿から自分の名前が消えていたのだ。
その足で上司の元に行き、小児病棟で働き続けたいと懇願したが、配置転換を命じられたのは耳鼻咽喉科外来だった。
「夜勤のある病棟勤務は無理と判断されたのかなと。産休に入る前日まで夜勤もしていたのにと、悔しかったですね」
この出来事もあり、仕事と子育てを両立する大変さも実感していくなか、川嶋さんの胸中では「働き方改革」への意識が芽生えていく(後編へつづく)。