「読解」よりもディスカッションの授業を

実は僕の文章が大学の入学試験にでたことがある。「筆者の心理」という問題で、用意されていた解答に違和感を覚えたんだ。切り取った部分から読み取ればたしかに回答としては合っていたんだけど、僕自身が本当に伝えたいことは切り取る前の部分に書かれていることだったんだ。

だから切り取られた部分だけで読み取るのは難しいと思うんだ。

個人的には文章から他者の気持ちやシチュエーションを読み取ろうとする「読解」よりも、国語教育にディベートやディスカッション(話し合いの場)をもっと取り入れたほうがいいと思っている。海外に出ると、「なにも意見がない、おとなしい人間」は、そこに存在していないものとしてみなされてしまうからだ。

国語の勉強はすべて無意味だ、といいたいわけじゃない。古文や漢文といった古典(古い時代に書かれた文学作品)を通じて、数百年、数千年前に生きた人々の心や思考にふれる喜びもあるだろう。本来は芸術に近いものなんだけれど、好きだったり楽しかったりするのであれば、どんどん勉強してほしい。受験に必要な科目であるならばなおさらだ。そこは割り切って学ぶ胆力(精神力)もぜひ育ててほしい。

「暗記」の価値はますます下がっていく

理科と社会についてもふれておこう。共通しているのは、「暗記」の価値が今後はますます下がっていく点だ。

山本康正『きみたちは宇宙でなにをする?  2050年に活躍するために知っておきたい38の話』(飛鳥新社)

この植物の仲間は? 革命の年号はどっちが正解か? そういったことは、検索すれば数秒でわかるだろう。かつては理科も社会も、知識をどれだけ多くインプットできるか、暗記できているかが重要だったが、そこはもうがんばりどころじゃない。

それよりも大事になるのは、「原理」と「流れ」をざっくりとつかみとる力だろう。理科であれば、たとえば自然法則の原理。電気や光の現象は、どんな原理で成り立っているのか。物体の運動やエネルギーはどう導き出せるのか。そうした「原理」をしっかりおさえておけばいい。

社会であれば「流れ」だ。明治維新はどこの藩が江戸幕府を倒す中心となり、彼らがどのように明治政府の立役者になっていったのか。なにかを変えようとする力は、江戸という中心地ではなく、なぜ多くの場合、地方からなのか。

同じ千年前の世界でも、地域によって文明の発達度に大きな差が生まれたのはなぜか。当たり前のように水道からきれいな水が出てくる国と、そうでない国の違いはどのような背景から生まれたのか。

そんな風に現在と過去をつなげることで、歴史の力学(基本的なしくみ)がみえてくるはずだ。流れがみえれば、今をみる目の解像度もぐっと上がってくる。