芭蕉や一茶を魅了…命がけで環境保全をした秋田の住職
このナショナルトラスト運動の先頭に立ったのが、南方であった。南方の地元、和歌山では激しい神社合祀に見舞われた。約3700社あったのが600社に整理されたという。
この状況を憂いた南方は、神社合祀反対運動の先頭に立つ。神社の樹木は地域の財産であり、生態系を破壊し、地域が衰退していく元凶になりうると警鐘を鳴らした。南方は投獄されるも、激しい抵抗を示し続けた。南方の運動によって、多くの神社と鎮守の杜が守られた。
神社だけではない。長い日本の仏教の歴史の中で、環境保護運動に僧侶がかかわった事例は少なくない。ここで興味深い例をひとつ紹介しよう。秋田県にかほ市にある蚶満寺の住職の話である。
この寺は象潟と呼ばれる風光明媚な場所にある。ここは、「東の松島、西の象潟」と評される景勝地としても知られる。かの松尾芭蕉も魅了され、わざわざ迂回してまで象潟にまで足を延ばしたほどである。1789(寛政元)年には俳人、小林一茶も訪れている。
象潟は芭蕉の『おくのほそ道』における、北限の折り返し点だ。しかし、芭蕉が見た風景を、現在の象潟に見ることはかなわない。
なぜなら、大地震によって土地の形状が変わったからだ。1804(文化元)年、この地一帯を象潟地震(マグニチュード推定7.1)が襲う。地震の3年前には鳥海山が噴火しており、その影響を受けた火山性地震とみられる。津波も発生し、家屋5500軒、死者366人を数えた。
この時、鳥海山の西側にあたる出羽の沿岸25kmにわたって土地が隆起した。象潟では平均2mも土地が持ち上がった。結果、蚶満寺の周囲の海は陸となり、風景が一変したのだ。
象潟島をはじめとする九十九島はまるで古墳群のように、ぽこぽこと地上に姿を現した。一方、蚶満寺は地震と津波、土地の隆起によって地蔵堂のみを残して壊滅した。
地震後に住職となった覚林は再建を誓う。一面、泥地となった境内の地盤改良と伽藍の再建に奮起している最中、ひとつの問題が起きた。
当時、この地を治めていたのは本荘藩であった。本荘藩は2万石そこそこの小藩で、地震後はひどい財政難にあえいでいた。そこで、隆起してできた干潟を干拓し、新田開発することで財政を立て直そうと考えた。
しかし、元は海。作物をつくっても塩害が生じてしまう。そこで藩は塩抜きのために元の島である山々を削ってならす計画を実行する。100以上あった島のうち40ほどの島が潰されたという。
このままでは、伝説にもうたわれた古くからの景勝地が失われてしまう――。覚林は再三にわたって工事の中止を藩に申し入れるも、無視され続けた。そこで覚林は一計を案じ、それを実行すべく、一路、京の都に向かった。
1812(文化9)年3月、和尚は御所の閑院宮家を訪ね、さまざまな古事を示すと、勅願所(天皇の命令によって国家鎮護・玉体安穏などを祈願する社寺)になってほしいと懇願する。蚶満寺が閑院宮勅願所ともなれば、周辺の景観は保全されると考えたのだ。
閑院宮は和尚の訴えを了承すると、御紋付きの提灯や幕、絵符、印判を与えると1815(文化12)年には、本堂の再建資金として白銀30枚を下賜した。京都の宮家の勅願所ともなればその言い分に、藩も無視することはできず、工事は中止になった。
ところが、藩からは逆恨みされることになる。藩は宮家の文書偽造など無実の罪をでっちあげ、寺を封鎖。身の危険を感じた覚林は江戸の寛永寺に駆け込み、訴えた。しかし、あえなく捕らえられて還俗(げんぞく、僧が僧籍を離れ俗人にかえること)を余儀なくされる。覚林は本荘城下で獄死してしまう。